ベティの雑記帳

つぶやき以上ブログ未満

《書くことについて》§I ベ的表現論

ブログを続けていると、書けることと書きたいことはちょっと違っていたり、書きたいけど書くべきじゃないことに頭を悩ませたりすることがある。僕がいまから書こうとしているのは、別に書きたくもないけどこれ以上書かずにやり過ごす訳にはいかなくなってきたこと、とでも言おうか。

 

§I ベ的表現論

 

いまの時代、情報の消費者にとってはスマホさえあれば充分だと言われている。確かにその通りだと思う。僕の場合も、平日に家でノートパソコンを開くことはまずない。週末、ある程度の気力があるときだけPCを開いて、新聞のデジタル版やメールマガジン、フォローしているブログの新着記事などの溜まりに溜まったものを少しずつ消化する。部屋の一角を占めている目に見える”積ん読”に加えて、こうした”デジタル積ん読”がうず高いので、僕の負債がチャラになったためしはない。

 

その一方で、何かを読むためではなく、何かを書くためにパソコンを開くこともある。書かれたものはほぼ確実にブログに投稿されるから、その頻度は決して高くないことが分かってもらえるだろう。

 

何も書かずに済むのならそれに越したことはない、と僕は常々思っている。つまり、プロでもないのに文筆家を気取って自分の身に起こったことや考えたことなどをわざわざ書き綴って公開したり、才能もなければ勉強もしていないくせに詩だの短歌だのを拵えて見せびらかしたりするような振る舞いは忌み嫌われて当然なので、そういったことはしないほうがいいに決まっている、と思っている。

 

しかしながら、僕自身を含めて、こうした振る舞いをしてしまう人間が後を絶たないのは、「自分を表現したい」という欲求が極めて強い自我を持っているからだ。ここでいう「表現」は、可能な限り広くとらえてほしい。文芸的なものや音楽的なものはもちろんのこと、スポーツやゲームも一種の表現かも知れない。対面でもオンラインでもアバター同士でも、会話はすべて最もプリミティヴな表現だと考えるべきだし、暴走族の排気音だって表現の仲間に加えてやる必要があるだろう。ファッションのような外面的なものだけではなく、趣味のような内面的なものも、それを外に向かって表明した瞬間かられっきとした自己表現だと言えるのではないか。

 

表現という行為が成り立つためには、それを受け取る相手が必要だ。むしろ、複数の人間が同じ空間で何かをしているとき、そこには必ず表現のやり取りがある、と言ったほうがいいかも知れない。では、そこに人間が1人しかいないとき、その人が何かを表現する手立てはないのか?

 

文芸的表現はひとりでもできる表現の代表例である。書き手と読み手が同じ場所にいる必要がないどころか、同じ時代に生きている必要もないから、書き手が亡くなっても作品が遺るということが起こる。このように、表現の行為それ自体と、それによる結果すなわち出来上がった作品が完全に切り離されるようなタイプの表現を、私たちは「創作」と呼んでいる。どんなに多くの人が携わる創作であっても、その核になる部分はいつでも「ひとり」で生み出されているのではないか、というのがいまの僕が持っている仮説である。

 

ちょうど去年のいま頃、こころの問題はこころだけの問題ではないという当たり前のことを身をもって感じる出来事があった。それ以来、自分のこころと身体を出来る限り守っていくためにはどうすればいいのか、というのが僕にとって大きなテーマとなっている。いまうっすらと思うのは、「自分を表現したい」という欲求を無理に抑え込もうとしないことはとても大事なことなのではないか、ということだ。

 

だから、こんな文章表現をしてみたいというアイデアが浮かんだら、まずはパソコンを開いて、自分が納得できるまで書いたり消したり行ったり来たりを続けるしかない。出版されてたくさんの本棚に残るような文章には程遠いけれども、インターネットの片隅でこんな風にひっそりと公開されるものでも、自分で消すか誰かに消されるかしない限りはずっと残り続ける...のだろうか。