ベティの雑記帳

つぶやき以上ブログ未満

『天王寺ハイエイタス』伊与原 新

6つの短編が収められた『月まで三キロ』(新潮社)の4つ目がこの作品だ。物語の舞台は浜松、東京、北海道ときて、筆者の出身地である大阪に移る。冒頭から生き生きとした会話が繰り広げられて、関東出身の自分でさえ、目で追った文字が変幻自在なアクセントとともに頭の中で聞こえてくるような感覚になる。

 

30歳を目前にして独身。そして次男。主人公は「どうしようもなさ」を抱えているように見える。周囲や自分に誇れるような何かを成し遂げることなくこの歳まで生きてきてしまったという後悔、自分の将来の道筋はもうほとんどはっきりしているのにそれを素直には受け容れたくないという抵抗、兄と比べられるたびに少し嫌な気持ちになりながらも自分自身でも兄と自分を比べてしまうことへの嫌気、そういったものが複雑にからまった「どうしようもなさ」である。

 

そこに「ハイエイタス」にまつわるささやかなドラマが起こる。これもまた地球惑星科学の用語だ。地球惑星科学は時間的にも空間的にも規模の大きな現象を扱っている。もしかすると、その概念を持ち込むことによって主人公の抱えているものを相対化して、あたかもちっぽけなものに思わせてしまうことはあまり難しくないのかも知れない。

 

しかしながら、伊与原ワールドに何万年というスケールの時間が持ち込まれるとき、それは登場人物たちの人生にぴたりと重なる。時間軸の尺度が大きく異なる出来事どうしが見事にコンボリューションしてしまう。そして、登場したすべての人物の生き様がなんだか愛おしいものに思えてくる。

 

小説は問いを見出すためのものであって、答えを出すためのものではないと思っている。この物語でも主人公に何らかの答えが与えられた訳ではないが、その「どうしようもなさ」は確実に解きほぐされているのが分かる。それを読者として見守っていた自分のなかの「どうしようもなさ」もまた、少しだけ解きほぐされていくような気がした。

 

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#読書感想文の会

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深い宇宙-臼田のパラボラアンテナ

8月19日 晴れ

 

長野県佐久市にあるJAXAの「臼田宇宙空間観測所」へ行ってきた。きのうの野辺山宇宙電波観測所とは違って、ここには巨大なパラボラアンテナがひとつ建っているだけだ。

 

直径64mパラボラアンテナ

 

このアンテナは、小惑星探査機「はやぶさ」をはじめとした深宇宙探査機とのデータのやり取りをするために使われてきたものだ。深宇宙(deep space)というのは「地球からの距離が200万キロメートル以上である宇宙」のことを指すと、電波法施行規則32条に書かれている。

 

宇宙とひと括りに言っても、近い宇宙から遠い宇宙までさまざまである。例えば、国際宇宙ステーションISS)が地球を周回しているのは地上から400kmの高さだ。「宇宙から見た地球」のイメージとして、このような景色を思い浮かべる人も多いと思う。

 

地上から400km ©JAXAhttps://humans-in-space.jaxa.jp/kibo/view/

 

近年は大学で人工衛星を製作して運用することも珍しくなくなってきたが、そういう人工衛星はこのくらいの高度にある。そこからの電波はテレビ用として一般家庭の屋根に立っているようなアンテナ(八木アンテナ)で受信することができる。

 

では、この臼田のパラボラアンテナが使われるような「深宇宙から見た地球」は一体どうなるのか。2015年11月にはやぶさ2によって撮影された画像がこれだ。画面の右側に地球、左側には月が見える。このとき地球からはやぶさ2までの距離が約300万kmだから、これがようやく深宇宙の入口だ。

 

地球から300万km ©JAXAhttps://www.hayabusa2.jaxa.jp/galleries/ryugu/

 

暗闇に浮かぶ地球を眺めているうちに、ふと心細いような気持ちになってきて、自分は宇宙のそういうところが好きなのかも知れないなと思う。

 

星の数ほど - 野辺山の夜空

8月18日 雨⇨晴⇨?

 

涼しい場所で星を見たいと思い立って、たどり着いたのは長野県の野辺山だった。電波天文学の聖地「国立天文台 野辺山宇宙電波観測所」やJRのすべての駅のなかで最も標高が高い「JR小海線 野辺山駅」があることがどれくらい広く知られているかは分からないが、僕にとっては、小さな頃からずっとずっと来たかった場所だ。

 

昼間のうちにこれらの見学を終えたあと、いったん山梨方面に下って夕食を食べながら外が暗くなるのを待った。20時を過ぎて野辺山に戻ってきたとき、昼間はおおむね晴れて太陽光を容赦なく浴びせていた空が、完全に曇っていた。それでもしばらく空を眺めていると、ほんの一部だけ、そしてほんの数分だけ、流れる雲の間からその先を見通せることが何度かあった。

 

「星の数ほど」という言葉がある。その意味とは裏腹に、僕たちがふだん見上げる夜空の星は簡単に数え上げることができてしまう。しかし、そのとき見えた星空は、明るい星と明るい星の間に暗い星がいくつもあって、数えることはほんとうに不可能だと思った。その暗い星と暗い星の間にもきっと見えない星がたくさんあって、その構造がどこまでも続いているのだということも想像せずにはいられないような星空だった。

 

特に、空を横切る薄明るい帯が天の川だと分かったときには、言い表せない高揚があった。太陽系という街はずれから銀河系中心部の街灯やネオンサインを眺める-それが北半球から見た夏の天の川だ。

 

その一方で、ずっと空を眺めているうちに、これらの星はすべて10mか20mくらい先に張り付いているだけなのではないかと錯覚することもあった。そう、プラネタリウムのドームの中にいる感覚だ。本物の星空を前にして「プラネタリウムみたい」というのはいささか嫌な感性ではあるが、これまでドームの中でしか見なかったような星空を目の当たりにしているという裏返しの実感がそこにはあった。

 

ひきこもごものひきこもり

8月17日 さっきまで雨

 

きょうは一歩も外に出ていない。もちろん誰とも会っていない。何らかの通信手段による音声のやり取りもない。独り言はいくつか言った気がする。

 

こういう日は、自分がリセットされている感覚があって、ものすごく心地がいい。こういう日がいつまでも続けばいいのだけれど、それでは収入が絶たれて、家賃が払えなくなって、この部屋を追い出されてしまう。自分の城でひとり気ままに過ごす幸せを維持するために、365日のうち250日は城の外に出て、人並みに働かなければいけない。なんてこった。

 

じゃあ、もし仮に、外へ出ることなく定収を得る手立てがあれば(文章で稼いでみたいなぁ...無理だけど)、その暮らしはパーフェクトと言えるだろうか。

 

それは「ひきこもり」と「家出」を同時にやっているようなものだと思う。普通のひきこもりは実家にひきこもる。家賃の心配がないから、何年もひきこもり続けることができる。その一方で、自分の部屋を一歩出たところに「家族」というあまりに強力な人間関係が横たわっているために、そこから出られなくなってしまうという側面があるのも事実だろう。ひきこもりを家庭問題としてその家族に押し付けても、無理やり引き出して矯正施設にぶっ込んでも、ろくなことはない。代わりに、あらゆる人間関係の重力を感じなくてすむような環境にしばし身を置くことで、他者と向き合わなければいけないというプレッシャーから解放され、自分がこれからどのように生きていけばいいのかを見出すことができないだろうか。その様子は「家出」に近い。

 

実家を遠く離れて独身で会社勤めをしているいまの僕を、ひきこもりとか家出というふうに見なすのは流石に無理がある。けれども、この暮らしをいつまでも続けることが正しいとは思えない。それはちょうど、ひきこもりや家出はいつか終わりにしないといけないことと似ている気がしてならない。

Gのレコンギスタ完結

8月16日 晴れ曇り大雨ぜんぶ

 

劇場版「Gのレコンギスタ」「Ⅳ 激闘に叫ぶ愛」と「Ⅴ 死線を超えて」を同時に上映している映画館を探して、続けて観てきた。これでGレコは完結となる。

 

最初に言っておかないといけないことがある。正直なところ、僕はこの映画の内容をきちんと理解できたとは到底言えない。だから、評論らしいことは書けないし、まともな感想すら言える気がしない。

 

なぜ理解できなかったのか。1つ目に考えられるのは、僕のガンダムシリーズに対する知識が圧倒的に不足していることだ。初めて触れたのが昨年の「閃光のハサウェイ」だった。そのときについてきた視聴コードを使ってGレコのⅠとⅡを観てみたら続きが気になってしまい、昨夏のⅢ、そして今夏のⅣとⅤを観たという次第である。ガンダムワールドの語彙をもっと知っていれば、充分理解できる内容だったのかも知れない。

 

2つ目に考えられるのが、こんなことを言うと怒られるのかも知れないが、「こんなもの誰が観たって難しい」という可能性だ。僕がこれまでに観てきた映画たちを思い返しても、これほどストーリー展開が複雑で目まぐるしいものはないように思う。

 

そのストーリーの複雑さは、「闘い」に必然性を持たせるためにあるのだろう。ガンダムの見せ場である戦闘シーンにリアリティを与えるのは、戦闘シーンそのもののリアルさではない。というか、機体の動き方も、爆発の仕方も、物理的なリアルさとはかけ離れている。その替わり、なぜモビルスーツに乗って戦わないといけないのか、どうして闘いを回避することはできなかったのかを強い説得力で示さなければ、そのリアリティが醸せないのだろうと思った。

 

富野由悠季氏は何を伝えようとしているのか。そもそもどんなことを考えているのか。不思議で仕方がないので少しずつ読み解いていきたい。

 

 


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それぞれの人にそれぞれの声

8月15日 晴れ

 

宮崎駿監督「風立ちぬ」の魅力は挙げると切りがないが 、主人公を演じた庵野秀明の声は大事な要素であるように思う。既に50代だった声優でもない男が20代のとある戦時中の航空技術者の声を担うというのは、普通のことではない。

 

話し方がその人の性格を如実にもの語ることは言うまでもないとして、そもそも「声」そのものがその人の極めて内面的なものを外界に向けて発信しているはずだ。庵野秀明の場合なら、多くの人が大人と呼ばれる年齢になれば忘れてしまうような少年期の悩みや痛みに向き合い続けてきたからこそ、どこか年齢を超越したような声をしているし、子どもから大人までを惹き込む映画を撮り続けている、と考えられないか。

 

それぞれの人にそれぞれの声がある。けれども、時として、人は声を「揃える」ことを求められる。学校での体育や部活動。ドキュメンタリーで見る自衛隊や消防隊の隊員たち。これと似ていてちょっと違うのが声を「合わせる」ことだ。デモ行進を思い浮かべると、ひとりひとりの放った声が、労働者から使用者に向けた、あるいはマイノリティからマジョリティに向けたひとつの束になっているという感じがある。おそらくは統率者の有無が、声を「揃える」ことと「合わせる」ことを質的に分けている。

 

僕は高校から大学の学部生にかけて合唱に傾倒していた。演奏の完成度を高めるためには声の個性を消し去ってひとつに「揃える」ことが必要なのか。それとも、ひとりひとり少しずつ異なる声を「合わせる」その先に、声のグラデーションすら内包したスケールの大きな音楽的表現が姿を見せるのか。

 

言葉には正しいものと正しくないものがある。誰かを傷つける言葉を正しいとは言えない。けれども、声には「正しい声」も「正しくない声」もない。あらゆる声がそのまま肯定される時代というのを、理想論でも綺麗事でもなく目指し続けなければいけないと思う。今日は終戦の日

 

コンパクトディスク考

8月14日 だいたい晴れ

 

まだ開封していなかったCDが2枚ほどあったので、それを聴いた。福原遥さんの1stアルバム<ハルカカナタへ>とPerfumeの最新アルバム<PLASMA>だ。

 

どちらも、サブスクで既に聴くことができる。<ハルカカナタへ>については、通勤の車内とかで既に何度も聴いていて、曲の雰囲気ごとにがらっと変わるその歌声に「はぁ...福原遥さん...好き...」などと言っていた。一方の<PLASMA>は、最初の1回を最高のコンディションで聴くと決めていたので、敢えてサブスクでは聴かずにおいていた。

 

CDが売れなくなっているのは必然に思える。かつて、総選挙の投票券とかいう特典を付けて同じCDを何枚も買わせる手法があったけれども、大量生産・大量消費のありようがどうにも前時代的だと思わずにはいられなかった。そもそも、モノとしてCDを買ったところで、そこに入っているのはデジタルデータなのだから、データを直接ダウンロードするのと何も違いがない。さらには、環境によってはCDの劣化は非常に速く、その寿命は30年と言われたりもしている。(※1)

 

こうして考えると、この時代にわざわざCDを買うことは非合理的なのだろう。実際、タワレコでCDを手にしてレジへ向かうとき、『この曲を聴きたい!』という思いよりも『このアーティストを応援したい!』という思いのほうが支配的だ。そこに合理性が首を突っ込む隙はない。

 

結果として、せっかくならばとミュージックビデオやらフォトブックやらがてんこ盛りのバージョンを選ぶので、その1枚1枚が分厚い。繰り返し聴きたいものは棚にも仕舞わず机の上で平積みになっている。その高さは、無駄遣いの結果というよりは、音楽という目に見えないワクワクの可視化である、というのは都合がよすぎるだろうか。

 

 

(※1)CDは何十年か経つと聴けなくなるという話を聞いたことがあるが... | レファレンス協同データベース