ベティの雑記帳

つぶやき以上ブログ未満

もう夏

平日の朝、起きるのがつらいのはいつものことながら、ここ最近はそのつらさが度を超えている気がして、その原因を考えてみたところ、夜中や明け方に目が覚めることが多いことに思い当たって、もう夏なんだなと思った。

 

この部屋はどうにも熱がこもりやすいようで、寝るまでの時間にクーラーをかけていても、寝るときにそれをOFFにすると、夜中に部屋の温度が驚くほど上がってしまう。それならば、寝ている間もクーラーをガンガンにしておけばいいと思うかも知れないが、コンセントの位置で家具の配置を決めたらどうしてもベッドをエアコンの真下に置くしかなくて、冷風を直に浴びるのもそれはそれで不調のもとだ。

 

去年の夏も同じ問題に直面して、最終的にはベストな空調設定を見つけたはずなのだけれど、秋と冬と春を迎えては見送るうちにそんなことはすっかり忘れてしまっていて、またしても試行錯誤をする羽目になっている。

 

そもそも、去年の梅雨の時期ってこんなに夜も暑かったっけ?よく憶えていない。その替わりに思い出してしまうのが、安倍元首相銃撃事件のことである。

 

この事件に関して僕がずっと思っているのは、被告が宗教2世であることが大きく注目されるあまり、もっと根本的な事件の背景に切り込めないようでは困るということだ。実際、事件の直後の憶測では、首相経験者を選挙活動中に襲撃するなんて政治的主張が理由であるに違いないと考えた人が多かったように思う。当初は『特定の宗教団体に恨みがあった』[1] と報道されていた、そのような供述を受けて、理由と行動の結びつかなさに戸惑ったというのが率直な第一印象ではなかっただろうか。

 

もちろん、僕がこんなことを言うまでもなく、担当の検察官や弁護士、ジャーナリストなどはそのあたりを詳しく調べようとしているに違いない。肝心なのは、この事件に遭遇してしまった我々が、ほんのちょっとでも関心を持ちつづけられるかどうかのような気がする。

 

この事件の直接的な被害者は安倍元首相ひとりだけだったと言うことも可能ではある。しかしながら、実際には、国内のみならず世界中の人々が間接的にショックやダメージを受けたはずであり、一人ひとりが受けた影響をその人数分足し合わせていけば、その総量は計り知れない。

 

重大事件が世相に影響を及ぼし、そんな世相がまた次の重大事件を引き起こすという連鎖反応は、社会や政治が相当な努力をしない限り、残念ながら引き起こされて当然のように思える。この危機感のような不安感のような感覚は、普段の会話には浮き上がってこないものの、実はほとんどの人がうっすらと意識しているものなのではないかと僕は考えている。

 

近年の重大事件、特に無差別殺傷事件においては、その原因として社会からの「孤立」が指摘される事例が多い。[2] また、つい先月には「孤独・孤立対策推進法」が交布され、その中では『孤独・孤立の状態となることの予防、孤独・孤立の状態にある者への迅速かつ適切な支援その他孤独・孤立の状態から脱却することに資する取組』[3] を推進すると書かれている。ネット上でよく言われているように、やはり「ぼっち=犯罪者予備軍」なのだろうか?

 

その前に、「孤独」と「孤立」を並記しているのはどうしてかを確認しておく必要がありそうだ。2021年の資料「孤独・孤立対策の重点計画」によれば、『一般に、「孤独」は主観的概念であり、ひとりぼっちと感じる精神的な状態を指し、寂しいことという感情を含めて用いられることがある。他方、「孤立」は客観的概念であり、社会とのつながりや助けのない又は少ない状態を指す。』とある。[4] [5] [6]

 

そして、「孤立していないが孤独である」場合や「孤立しているが孤独でない」場合も考えられ、対策を必要とするような『「望まない孤独」であるか否かの判断には慎重さが求められる』と書かれている。[4]

 

「その孤独はあなたが望んだものですか?」という問いに僕は即答できる気がしない。そもそも「あなたは孤独であると感じますか?」という問いに対してYESとNOのどちらに丸をするべきなのか分からない。

 

YESと答えたとして、「あなたには対策が必要です」「何でも相談できる相手をもちましょう」「自宅と職場以外の居場所をつくってください」とか言われるのであれば鬱陶しい。かといって、「孤独感がないのであればずっとそのままでいいですね」「生涯未婚でもそれは望んでのことですよね」なんて言われるのも腹が立つ。それを言った相手にではなく、何も決められないままこの歳まで漫然と生きてきてしまった自分に、である。

 

自分にとって「ひとり」の時間が不可欠であることは間違いない。もしかするとそういう時間が普通の人よりも長いという可能性はある。それは、音楽を聴いたり、何かを読んだり、こうして何かを書いたりという「ひとり」で出来ることが自分の趣味の大半だから、おのずとそうなっているのだろう。

 

ならば、どうして僕の好きなことは「ひとり」で出来ることばかりなのか。それは恐らく、ひとりでいれば「ズレ」を意識しないで済むからだ。誰の目から見ても僕は充分に平凡であり普通であるはずなのに、そんな普通と僕の間には、ちょっとやそっとでは埋めることのできない「ズレ」があるように思えてならないときがある。

 

本来なら、その「ズレ」を埋めるための努力をしなければならないので、僕にとってのひとりの時間は逃避でしかないのかも知れない。それでもやはり当面は、誰かと一緒にいる時間とひとりの時間との自分にとってベストな比率を維持することしかできそうにない。KIRINJIの『人は孤独な生き物 でも孤立してたらいけない』[7] というフレーズがこれからもその指標になりそうだ。

 

 

[1] 安倍元首相銃撃 宗教団体が会見 “容疑者の母親が信者” | NHK | 安倍晋三元首相 銃撃

[2] (社説)無差別殺傷 孤立社会の病が見える:朝日新聞デジタル

[3] 孤独・孤立対策推進法(令和5年5月31日成立 令和5年6月7日公布)

https://www.cas.go.jp/jp/seisaku/suisinhou/pdf/suisinhou.pdf

[4] 孤独・孤立対策の重点計画(令和3年12月28日 孤独・孤立対策推進会議決定)

https://www.mhlw.go.jp/content/12000000/000885368.pdf

[5] 「人々のつながりに関する基礎調査(令和4年)」の結果では、「あなたはどの程度、孤独であると感じることがありますか。」という質問に対して「しばしばある・常にある」と回答した人の割合は4.9%、「時々ある」が15.8%、「たまにある」が19.6%、「ほとんどない」が40.6%、「決してない」が18.4%となっている。  https://www.cas.go.jp/jp/seisaku/kodoku_koritsu_taisaku/zittai_tyosa/r4_zenkoku_tyosa/tyosakekka_gaiyo.pdf

[6] 秋葉原無差別殺傷事件の加藤智大元死刑囚が、2012年に出版した著書「解」の中で「孤独」と「孤立」の違いについて具体例を挙げて述べている。これを引用した「天声人語」では、この考えを『ゆがんだ孤独感』『こんな屈折した思考』と述べているが、[4] の定義に照らしても適切な具体例といえるのではないか。むしろ、みずからの犯行の原因になったかも知れない「孤独」や「孤立」について深く考えた跡が見えるといっても言い過ぎではないように思う。

(天声人語)孤独と孤立:朝日新聞デジタル

[7] KIRINJI/first call(作詞:堀込高樹 作曲:堀込高樹

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