ベティの雑記帳

つぶやき以上ブログ未満

やっぱりピアノを弾けるようになりたい話

「ピアノを弾くこと」について文字でつらつらと書いたところで、どうにもならないことは分かっている。ピアノを弾けるようになりたいのであれば、それなりの努力をするべきだ。

 

1回30分の個人レッスンを月に4回、それを続けて9か月が経った。けれども、通しで弾けるようになった曲というのが、まだ1曲もない。8小節ぐらいに区切ったフレーズを、まず左手だけで弾けるようになり、次に右手だけで弾けるようになり、それからリズムを崩しながらもタイミングを合わせて両手で弾けるようになり、それを繰り返すことで徐々に慣れてくると、ようやく(指定のテンポに追いつけないにしても)楽譜に書かれた音符の連なりを音にすることができる。この一連の流れにものすごく時間がかかってしまう。

 

仕事に慣れてきたら楽器を習ってみようという考えはかなり前からあった。しかし、自分の記憶をどこまでも遡ってみると、かつては真逆の状態だったことを思い出す。幼稚園児だった頃、両親は僕にヴァイオリンを習わせたのだけれども、あまりに僕が嫌がるので、メソードの初歩の初歩でやめてしまったのだ。

 

いまとなっては勿体ない話である。何がそこまで嫌だったのか定かではないが、ともかく先生が恐くて仕方がなかった記憶がうっすらとある。とはいえ、そこら辺の幼稚園児を相手にして格別に厳しい指導をする筈もなく、先生が異常に恐かったというよりは僕が異常に恐がっていたというほうが真実に近いのだと思う。

 

小学校へ上がると、ピアノを弾ける女の子というのが少なからずいた。中学・高校になると、ピアノを弾ける男の子にも多く出会った。合唱の伴奏であったり、授業前の音楽室であったり、いま思い返しても、でっかいグランドピアノを堂々と弾く姿にはやはり憧れるものがあった。

 

そんな姿と同じくらい強く印象に残っているのが、ピアノコンクールなどで賞をもらった子が全校生徒の前で表彰される風景だ。この子たちは、僕が幼稚園児のときに恐くて逃げ出したようなレッスンをずっと続けているからいまこうして校長先生から賞状を手渡されているんだよな...と想像すると、あらゆる賞状と縁のない子供だった僕は、自分が何の取り柄もない空っぽな人間であるように思えてならなかった。

 

「趣味」と「特技」は履歴書だったら同じ欄になるけれども、これらは同じではない。「趣味」が「特技」になるためには、多かれ少なかれ「努力」が必要になるのではないかと僕は考えている。もっと言うと、努力には相性があって、努力との結びつきがいいものと結びつきがよくないものがあるように思える。

 

坊主頭で日に焼けた野球部の主将が自己紹介をするときには、「趣味は野球をすることです」と言うよりも「特技は野球をすることです」と言い切ってしまう方が自然だし、メタルフレームの文芸部長が少し恥ずかしげに言う「趣味は小説を書くことです」を「特技は小説を書くことです」に置き換えたら、やっぱり違和感があると思う。

 

そして、その理由は、野球部が甲子園に出るために練習に励むことは努力と呼ぶに相応しいけれども、文芸部が文化祭で配布する部誌の締切に追われることを努力と呼ぶことにはちょっと違和感があることと深い関係があるのではないだろうか。

 

言うまでもなく、文化部を運動部よりも下に見ているとかそういう話ではない。ここでは野球を例に挙げてみたが、スポーツは得てして「プロセス」よりも「結果」を重視する性質のものだと思う。それどころか、その選手が何処からやって来たかとか、どれくらいの期間その競技を続けてきたかというような情報はすべて排除され、定められたルールに基づいた勝敗のみが結果として残るものである筈だ。

 

一方の小説は「結果」よりも「プロセス」が重要である物事の代表例として挙げたつもりだ。小説でも映画でもRPGでも、友達が結末を口走ってしまったところでその価値が無くなることはない。そこにどんなストーリーがあるのかというプロセスを体感したくて、我々はそういうものにお金を払っている。それを創作することは、物事のプロセスを大事にする人にしか出来ないことだろう。

 

要するに、結果が重要なものが「特技」と言われるもので、プロセスが大切なものが「趣味」と呼ばれるものなのではないかと、僕はそう考えている。その上で、そもそも結果を重視していない性質の物事も世の中にはたくさんあるから、スポーツと同様の枠組みをあらゆるものに当て嵌めようとするのはナンセンスであるということも、ここできちんと主張しておきたい。

 

僕のピアノの話に戻る。いつかは、自分の演奏をちゃちゃっと録音してSNSにアップできるぐらいになれたらいいな...なんて妄想をすることもあるけれども、実際には、その日の気分で作った音色を適当に鳴らして悦に浸ったり、楽譜の中のとある和音がものすごく綺麗でそこばっかり弾いたり、弾けるようになるための努力をする気配が全くない。

 

ありがたいのは、レッスンの先生が、いい歳をした大人である僕を相手に努力を求めることはせず、僕の進むペースに合わせてくれていることだ。もし僅かでも僕がピアノの練習をやらされているように感じることがあったら、幼稚園児の頃から何も成長することなく、辞めてしまっていたことだろう。

 

最近は、体力的にも精神的にも余裕を失いかけるくらいに仕事に追われたり、あらゆるものから逃げ出したくなる衝動に駆られたりすることがないこともないが、少なくとも週に1回は鍵盤に触れる時間をつくっていることが、何らかのいい影響を与えている可能性というのはあると思っている。いまの演奏のレベルだと「僕の趣味はピアノを弾くことです」と言うのは正直ちょっと気が引けるところだが、それはそれで構わないような気もしている。

 

趣味と呼べるほどでもないのだけれども、知りたいこと、やってみたいこと。それの名前は、たぶん「興味」だ。