ベティの雑記帳

つぶやき以上ブログ未満

ちょっと大袈裟かな?

先日、いつもの美容師さんに髪を切ってもらいながら、来週ぐらいには引っ越しちゃうんですよという話をした。こういう風に僕が客という立場だと、お店を出るときに「また来てくださいね」と言ってもらえるので、少し気が楽になる。

 

おそらく実際には、何かしらの用があって静岡に戻ってくる機会は限られるし、その機会と髪を切りたいタイミングが一致して、なおかつ時間に余裕があって、というような場面はないと思う。それは分かっていても、また会う可能性がある感じにしておかないと気分がセンチメンタルになり過ぎてしまう。

 

このことは会社の最終出勤日にもつくづく思った。他の部署の上司など数人から言われたのは「テレビに映れるくらいにがんばれ」だった。それもまあ一種の再会だし、そうやって宇宙探査や宇宙開発のニュースに注目してくれれば嬉しいし、いまのところ大学教員を第一志望にしている僕にとっても掲げるに値する目標だし、ありがたいことだと思う。ちなみに同じ部署の年齢が近い人たちなどは相模原まで遊びに来る気が満々で、こっちは遠くない将来に実現してほしい。

 

自分としては、この会社にこれから何十年も居続けるかどうかを見極めようとする視点が最後まで残っていて、肩までどっぷり浸かるのではなく波打ち際でチャパチャパやってしまったという気持ちがある。だからこそいまこういう進路になっている訳なのだけれど、僕が思っている以上にちゃんと一員にカウントしてもらっていた感じがあって、つくづくありがたいと思う。

 

ここに住んで1年目のうちに冒頭の美容師さんが担当になってくれたことがあり、そのときに同い年だということが分かって、それ以来ずっと指名をしていた。今回はちょっと会話が少なめだな、やっぱり忙しいのかな、と思ったことがあったが、その3か月後にはお腹が大きくなっていて、そのあと数回は同じ美容院の他の美容師さんにお願いをすることになった。

 

「そういう目標というか夢みたいなのがあってすごいですね」と言われたので、バリバリ仕事しながら子供さん育てて、そのほうがよっぽどすごいじゃないですか、もしみんながみんな僕みたいな生き方したら社会が崩壊しちゃいますよ、と言ったらめっちゃ笑われてしまったのだけれど、これはずっと変わらない僕の本心でもある。

 

この辺りのことは、この5年間ずっと考えつづけてきたことなので、いろいろな階層でいろいろな角度から説明ができるのだけれど、まずもって、自分の職業や進路は僕ひとりで決定して行動できるのに対して、結婚や子育てといったことは自分ひとりで成すことができない。この時点でどちらの難易度が高いかは明らかだ。

 

また、これは功利主義や徳倫理学のような倫理学的な『正しさ』とは微妙に違っている個人的感覚になってしまうのだけれど、みんなが同じ行動を取れないのであればあまりいい行動とは言えない、という考えが僕にはある。端的な具体例を挙げれば、500人いる避難所で800個しか乾パンの缶がないのに3個目を持って行っちゃダメでしょ、みたいな話である。

 

国立大学に授業料免除で通うということは、税金を納める側から使う側になることだと言って差し支えないと思う。『大学院生は対象になりません。(大学院への進学は18歳人口の5.5%に留まっており、短期大学や2年制の専門学校を卒業した者では20歳以上で就労し、一定の稼得能力がある者がいることを踏まえれば、こうした者とのバランスを考える必要があること等の理由から、このような取扱いをしているものです。)』という有名な一節もあるように、みんながみんなこっち側に来ることは出来ないのだから、そのことに対する後ろ暗さは拭えないというのが僕の感覚だ。

 

とはいえ、この話にはふたつの但し書きをセットにしないといけない。ひとつ目は、そもそも税金を使う側=悪ではないということだ。生活保護受給者や障害者さらには年金受給者などを自分よりも下と見なして執拗に批判するような態度は明らかに間違っている。なぜそういった態度が取れるのかといえば、働いている自分たちと働いていないあの人たちの間に上下の境界線を引くことが出来るという誤った認識があるからだ。

 

すべての人が活躍する社会を目指そうなんていうのは想像力の欠如もいいところで、本当に安全・安心な社会というのは、たとえ明日事故で大怪我をして首から上しか動かせなくなってもなおしっかりと生きていけるような社会であって、それはつまり活躍しようがしまいがそんなことお構いなしに居場所のある社会である。こうした言うまでもないことを改めて書かないといけないほどに最近の世の中には厳しいものがあると感じている。

 

もうひとつの但し書きは、大学院生の研究は勉強よりも仕事に近いということである。これはおそらく理系で学部卒以上の経験をした上で就職した人であれば当然分かっていることだと思うのだけれど、そうでない人からはどうしても「また勉強するなんてすごいね」というようなことを言われがちだ。

 

僕が常々思うのは、高校や専門学校などで学ぶことがどちらかというと自分の手に職をつけるためのものであるのに対して、大学や大学院で学ぶことは決して自分のためだけではなく回り回って社会に還元されている、ということだ。端的に言えば前者は消費のイメージで、後者は生産のイメージである。このことには文系とか理系とかも関係ないと思う。

 

そもそも『学生』と『社会人』という対比が全然正しくない気がする。企業では出来ないような研究が大学で行われて、その成果が学会や論文で発表され、企業の人たちも含むさまざまな人がそこにアクセスする。バイトでその街の大事な働き手になる。サークルや部活で文化やスポーツを盛り上げる。(レベルだけで言えば『社会人』のほうが上だったりするが、未経験者を数年で一人前にして競技人口を供給するようなはたらきは『学生』の活動が圧倒的だと思う)どれを取っても社会の一員と見なすに充分だろうと思う。

 

だから、たとえ僕が30歳学生ですわ~とか言ってヘラヘラしていても、僕以外の博士課程学生あるいは大学院生をいい歳してまだ社会に出ていない人たち、のように言うのは全くもって見当違いということだ。

 

会社を辞めて博士課程学生になるという判断をはたから見るとどうしてもストイック!とか向上心!という感じに見えてしまうのかも知れないけれど、自分の感覚としては真逆である。本来だったら、苦手だった会社での業務も克服するべきだったし、私生活が停滞しているなら言い訳も高望みもせずに婚活でも何でもするべきだった筈だ。けれども結局は、僕がいちばん好きなもの、僕がいちばんやりたかったこと、そして僕の中ではいちばん得意なことに戻ってきてしまった。

 

そういえば、面接試験を終えてから合格発表が出るまでの2週間ちょっと、溜まった疲れがある筈なのに気分が落ち着かずどうしても早く目が覚めてしまうような毎日に、ふっと気が付いたことがあった。それは、僕が前々からたまに言っている「みんなが宇宙に行ける時代をつくる」というのは個人的な夢というよりも社会的な使命なんじゃないか、だから自分の中に納得のいく理由を探して諦めようとしても出来なかったんじゃないか、ということだった。

 

ちょっと大袈裟かな?

 


www.youtube.com