ベティの雑記帳

つぶやき以上ブログ未満

「言えないことを書く」

 「言語はもともとコミュニケーションツールとして生まれたのではなく、思考のツールとして生まれたのだ(※1)」という説を最近目にした。人間以外の動物における鳴き声の成れの果てが言葉だと思っていたので、やっぱり言葉は伝達のツールとして生まれたものでは?という疑問が残りはするのだけれど、それを上回って腑に落ちる感覚があるから不思議だ。

 

 言われてみれば、いま僕が書いているこの文章は伝達を目的とはしていない。「言えないことを書く」ということを、僕はこの雑記帳のコンセプトにしている。それは、自意識の深い部分に言及する必要があるから対面の会話では恥ずかしくて到底言えないというものもあるし、反感を買われたり嫌味に思われたりする可能性を懸念してSNS上では書けないというものもあるし、ある考えについてきちんと伝えるためにはまとまった文字数が必要だからここで書くしかないというものもある。そう考えると、SNSの投稿というのは「書く」よりも「言う」に近い。

 

 この雑記帳を書くことに関してはいくつか謎がある。所詮は僕の内部の話なのだけれども、せっかくなので説明させてほしい。まず、何かを書き始めるときは極まって、今どうしてもこれを書かないと精神に異常をきたすんじゃないか?という感覚が目盛線を上回っている。実際、前回の投稿までの1~2か月ほど書くことを我慢してみたが、朝は眠くて仕方がなく遅刻ギリギリの時間に起きるのに夜は布団に入り電気を消してもなかなか眠れなかったり、やっと週末を迎えるときでさえ解放感やワクワクを感じられなくなったり、雑誌やオンラインで購読している新聞の記事などを全く読めなくなったり、気になる新曲があってライブラリに突っ込んであるのに再生ボタンを押す気力がなかったり...と、いつもとは明らかに違う状態になっていた。どうやら書くことには意味があるらしく、想定外であり謎だった。

 

 また、題材だけは決まっていても話の筋道はおろか結論すら決まっていないような場合のほうが何故か「公開する」ボタンをクリックする瞬間の快感が大きいというのも謎だ。こういうとき「アップする瞬間は射精のようだ(※2)」のフレーズが本当にしっくりくる。

 

 何故こうなるのか。冒頭の説を読んだときにふと気付いたのは、「言えないことを書く」という作業は思考そのものだということだ。これまでは「言えない」理由として他者の反応などを想定していたけれど、そうではない。書き始める時点では言葉で説明したくてもできなかったような事柄でも、書いたり消したり入れ替えたりを繰り返すうちに思考が整理されていき、文章としてどうにか読めるものが出来上がる頃には書き始めた時点よりも思考を一歩先へと進めることができる。

 

 こんなことが可能なのは、確かに言葉があってこそだ。言葉を文字と言い換えたほうが厳密かも知れないけれども。頭の中にあるものを言葉に当て嵌め、一文字ずつ外に引っ張り出してとりあえずそこに置き、その次に考えるべきことを考えたり、何度も何度も最初から読み直したりすることでこの文章もつくられている。

 

 要するに、頭の中で扱える情報やら概念やらの量なんてたかが知れていて、言葉そして文字の助けを借りることで人間はいろいろなことを思考できる、ということなのだと思う。そう考えると、文字を読めて書けるということは大前提としてとても大切だし(※3)、より多種多様で抽象的な事柄に対してもそれに適した言葉を当て嵌めることができる能力というのは思考力そのものと言ってもいいくらいに重要だ。

 

 最後に、これを書きながら浮かんだ疑問について。僕がこうして書く文章は、僕自身にとっては何らかの意味があるものらしいのだけれど、この文章を通して誰かに何かを伝えるという意図はない。この場合、この文章は「役に立たない」「不要不急である」と言うべきか?否か?

 

 

※1 

business.nikkei.com

 

※2 

革命前夜

革命前夜

  • ミソシタ
  • ヒップホップ/ラップ
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes

music.apple.com

 

※3 識字率が重要であるということが頷ける一方で、障がいなどによって言葉を扱うことができない人がいることを忘れてはいけないなと思ったので注記。