ベティの雑記帳

つぶやき以上ブログ未満

高校時代とミスチルと

ap bank fes '23 ~社会と暮らしと音楽と~】の1日目に行ってきた。

 

僕がミスチルにどっぷりとハマっていた時期はちょうど高校の3年間に重なる。櫻井和寿小林武史、そして坂本龍一によって設立された「ap bank」が開催するこのフェスの存在を知ったのもその頃だ。ap bank fesの模様を収録したものが放送されていて、ひとりお茶の間のテレビでそれを観ながら『いつか行ってみたい』と思った記憶がある。

 

記憶がある、といっても過去の記憶は改変されていることが少なくない。念のために調べてみると、2012年の秋にNHK総合やNHKBSプレミアムで再放送も含めて何度か放送されていたということが確認できた。受験勉強もそこそこに、後につま恋静岡県掛川市)のこんな近くに住むことになるなんて思いもせず、それらの放送のどれかを観ていたのだろう。

 

 

今回は初めてのap bank fesであり、初めての生ミスチルでもあった。その理由は、学生時代は時間的にも金銭的にもライブに行く余裕なんてなかったということも勿論あるのだけれど、それ以上に僕がミスチルから離れていたということのほうがずっと大きい気がする。

 

これは私的な解釈になるけれども、Mr.Childrenの音楽が最も伝えようとしているメッセージを歌詞から引用すれば「誰の真似もすんな 君は君でいい/生きる為のレシピなんてない ないさ」になると思っている。

 

 

少なくとも勉強については自信を持てる程度の水準を維持していて、年に何cmも身長が伸びて出来ることが目に見えて増えていった中学までとは違って、目指す自分と実際の自分との隔たりが最後まで縮まらなかったのが僕の高校時代だった。それでもミスチルの曲を聴きながら、そして歌いながら、目指す自分をちゃっかり実際の自分のほうに引き寄せたりすることなく走り抜けることは出来たのかな、とは思う。

 

では、その後どうしてミスチルから離れることになったのか。それは、『君は君でいい』という生き方に対する疑義が徐々に大きくなっていったからに他ならない。『みんなが当たり前にやっていることを自分だけやらない』なんていうのは自意識過剰の表れのようなものだし、『みんなが普通に出来ていることが自分には出来ない』というのであればそれは単なる努力不足であって、『君は君でいい』という台詞を決してそのまま受け取ってはいけない。いつしかそう考えるようになった。

 

1日目のミスチルのステージは「CROSS ROAD」から始まって、僕が初めて買ったCDアルバムであるSUPERMARKET FANTASYから「口がすべって」や高校1年のときに発売されたロックなアルバム(という印象を当時は受けた)SENSEから「HOWL」など、当時どれだけ繰り返し聴いたか分からない曲も演奏され、ちょっと泣きそうになるくらい感じ入ってしまった。

 

このとき気付いたのは、僕がミスチルを好きというよりは、ミスチルが僕の好みを形作っていると考えたほうがより正しいのではないか、ということだった。それは音楽的嗜好に限ったことではない。いまの僕の思想や価値観もあの高校時代があったからこそのものであって、ミスチルの言葉のひとつひとつに影響を受けていると考えたほうが自然である。

 

そもそも、『君は君でいい』という生き方から距離をとって『みんなと同じであること/普通であること』を目指したこれまでの間に、僕は実際どれだけ変わることが出来ただろうか。目指す自分がある場合には、向かうべき方向はひとつに定まる。しかし、みんなとか普通というようなものを目指せと言われても、その正体は漠然としていて、どちらに向かって歩き出せばいいのかすら僕にはよく分からない。

 

かつての僕が『いつか行ってみたい』と思っていた場所に、11年経ってこうして辿り着くことができたように、かつての僕が目指していたものをもう一度追いかけてみることもおそらく可能なのだろう。というより、自分に出来るのはそういう生き方だけのようにさえ思える。

 

さて、自分からミスチルの海に飛び込んだのは高校生になるときだったけれども、ミスチルのことを初めて意識したのはもっと前だった。2004年に始まった日清食品のテレビCM「NO BORDER」である。

 

 

きっと、櫻井さんははじめから『世界』を歌おうとしている訳ではないのだと思う。さまざまな出来事を受けて自分のなかで引き起こされる心の動きを細かく詳しく観察することによって、結果として普遍的なところへ行き着いてしまうのではないだろうか。とても哲学的だし、やっぱりかっこいいなと思う。