ベティの雑記帳

つぶやき以上ブログ未満

それぞれの人にそれぞれの声

8月15日 晴れ

 

宮崎駿監督「風立ちぬ」の魅力は挙げると切りがないが 、主人公を演じた庵野秀明の声は大事な要素であるように思う。既に50代だった声優でもない男が20代のとある戦時中の航空技術者の声を担うというのは、普通のことではない。

 

話し方がその人の性格を如実にもの語ることは言うまでもないとして、そもそも「声」そのものがその人の極めて内面的なものを外界に向けて発信しているはずだ。庵野秀明の場合なら、多くの人が大人と呼ばれる年齢になれば忘れてしまうような少年期の悩みや痛みに向き合い続けてきたからこそ、どこか年齢を超越したような声をしているし、子どもから大人までを惹き込む映画を撮り続けている、と考えられないか。

 

それぞれの人にそれぞれの声がある。けれども、時として、人は声を「揃える」ことを求められる。学校での体育や部活動。ドキュメンタリーで見る自衛隊や消防隊の隊員たち。これと似ていてちょっと違うのが声を「合わせる」ことだ。デモ行進を思い浮かべると、ひとりひとりの放った声が、労働者から使用者に向けた、あるいはマイノリティからマジョリティに向けたひとつの束になっているという感じがある。おそらくは統率者の有無が、声を「揃える」ことと「合わせる」ことを質的に分けている。

 

僕は高校から大学の学部生にかけて合唱に傾倒していた。演奏の完成度を高めるためには声の個性を消し去ってひとつに「揃える」ことが必要なのか。それとも、ひとりひとり少しずつ異なる声を「合わせる」その先に、声のグラデーションすら内包したスケールの大きな音楽的表現が姿を見せるのか。

 

言葉には正しいものと正しくないものがある。誰かを傷つける言葉を正しいとは言えない。けれども、声には「正しい声」も「正しくない声」もない。あらゆる声がそのまま肯定される時代というのを、理想論でも綺麗事でもなく目指し続けなければいけないと思う。今日は終戦の日