ベティの雑記帳

つぶやき以上ブログ未満

ひとりであるということ

 先日、自分の誕生日があった。もう27回目なんだから普通の日と同じ顔をしてやり過ごすべきだろうという思いはあったのだけれども、1か月近く前から「おっ、そろそろ来るじゃん」という意識が発生してしまい、結果的には普段通りとはかけ離れた過ごし方をすることとなった。

 

 今年の誕生日は日曜だったので、その翌日に有給休暇をとって、1泊の一人旅をしてきた。ただし、いまの情勢を踏まえると、行き先は県内で移動は自分の車、そして多くの人が集まるような場所ではないほうがいいと思い、久能山東照宮を目的地にすることにした。静岡で暮らすことが決まったときからずっと行きたいと思っていたし、何度もすぐ近く(静大静岡キャンパス)まで行っていたのに、これまでに行ったことがなかった。

 

 そして、あの辺りには東照宮と動物園のほかに何があるのかと調べていたとき、検索画面に「日本平ホテル」の文字列を見つけた。そして僕は次の瞬間にはもう宿泊の予約を済ませていた...と言いたいところだが、予約ボタンを押すまでに正直かなり悩んだ。夕食朝食付きのいちばんリーズナブルな部屋で3万円弱という金額を「ひとりでコース料理食うとか何がしたいのか分からん。マジで金の無駄」と考えるか、「20代後半にもなってその程度のことで大袈裟ですね。あなたはこれまで泊りで出かけるときに野宿でもしていたのですか」と考えるかは個々人の価値観によるのだけれども、そのどちらにも属さない考えが以前から僕の頭の片隅に浮かんだままだったので、結局はそれに従うことにした。

 

 それは、少し勿体ぶった言い方をするなら、自分が知らない世界は身近な場所にまだまだたくさんあるのではないか、という考えだ。この感覚をうまく説明する言葉がなかなか見つからないのだけれども、例えば、東京に出れば自分が活躍できる場所が必ずあると考えたり、ただ海外に行きさえすればそのまま日本にいた場合よりも価値ある人間になれると考えたりするのは、ここで言う僕の感覚によるものとは対極の態度だ。そして、この感覚のために、僕はこれからの進路についてかなり思いあぐねる羽目になっているのだが、それはまた別の話である。

 

 さて、話を戻すと、日頃は自分の衣食住にかかる支出にかなり消極的な僕にとって、27歳の誕生日の夜は本当に贅沢な一夜になった。どんな種類の贅沢であるかを一言で表すならば、「余白」の贅沢だと思う。それは、大きな皿にレイアウトされた料理であったり、それがテーブルに届くまでの時間であったり、大きなテラスの向こうに広がる清水の夜景とこちら側を隔てる広い庭園であったり、あるいはクイーンサイズのベッドと2セットの枕であったりした。余白のある贅沢というのは、おそらく本物の贅沢なんだろうなと感じた。

 

 このとき同時に強く実感したのが、自分はいま「ひとり」であるという事実だった。付き合っている人もいなければ普段から会える友達が同じ街に住んでいる訳でもない、同居している家族もいないし、社宅や寮ではないので一緒に住んでいるのは全く知らない人たちであるといった理由から、比較的高純度な「ひとり」に身を置いているのがいまの僕であると自分では思っている。そして、「自分はひとりである」という感覚は一般的にあまりよいものではないとされているし、僕もそう思う。確かに感染症のリスクは低いかも知れないが、それと引き換えに何かのリスクが高まっているのではないかと想像してしまうこともある。夫婦もしくはカップル、子ども連れなどが目に入ると、自分の状況が相対的に浮かび上がってきて意識に侵入してしまうというのは、やはり避けられなかった。

 

 「自分はひとりである」と感じることなく暮らしていくための方法は、大きく3つに分けられると思う。ひとつめは、誰かと一緒に生活をすることだ。これはおそらく説明不要であり、もっとも根本的な対策でもある。実際、徐々に高齢になりつつある親のことなどを思えば、自分の生まれ育った家もしくはその近くに住んで、そこで一緒に暮らしてくれるパートナーを見つけるというのがもっとも満点に近い解答だろう。どちらも実行できていない僕にとっては、そのいずれかもしくは両方ができている人というのは本当に尊敬の対象だ。

 

 ふたつめは、「自分がひとりである」という感覚を忘れられるような行動をすることだ。今回の旅行でも、口にしたカクテルがおいしかった瞬間、展望台に上って目に映った景色が美しかった瞬間には、自分がひとりであることに対するネガティブな感覚は消え去っていて、むしろその瞬間を独り占めできることに対する優越感さえあったようにも思う。もしかしたら、そういう瞬間があるという事実が、ひとりのまま生きるということへの大きなモチベーションになっているのかも知れない。

 

 最後のひとつはというと、人はひとりであるときも決してひとりではないという真理を知るという方法だ。何を言っているのかと怪しまれていると思うけれども、これ以上の説明はできない。なぜかというと、僕にはその感覚が分からないからだ。もし本当にそういう感覚があってそれを感じ取ることができるのならば、それはもう悟りの境地なのではないかと思う。それがなかなかできないから、ふとした瞬間につらいや死にたいといった言葉が口を衝いて出る。

 

 ところで、一人旅で出会うおいしいものや美しいものがあれほどに心に響くのはなぜだろう。今回ふと思ったのは、「ひとり」であるということは自分の中に充分な「余白」がある状態なのではないかということだ。そうであるならば、「ひとり」で生きるということは、ある意味においては本物の贅沢なのかも知れない。

 

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Fig.1 マティーニ

 

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Fig.2 サービスショット(?)

 

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Fig3. 日本平ホテルからの富士山