僕はその日、名古屋へ来ていた。梅雨ももう明けたのに、僕はまだ内定をひとつももらうことができず、就活を続けていたのだ。今日は最終の個人面接だったが、順番がかなり早かったので、10時前にして既に帰途に就いていた。
手ごたえは全くと言っていいほどなかった。帰ったらまた追加で何社か受ける準備をしなければいけないと考えると、まっすぐ帰る気力も失せる。かといって、この日差しの中を暑苦しい格好で歩き回るのも御免だ。何ともやるせない気分で、時折立ち止まってはスマホで地図を見ながら、来た道を引き返すように駅へ向かった。
と、そのとき、急に誰かが僕を呼び止めた。
『あの...すみません...』
たったいま黒い眼鏡をかけた髪の長い女性とすれ違ったが、その声は明らかに男性のものだ。この距離であれば、今の呼びかけは女性にも聞こえている筈だが、何の反応もなく駅とは反対側へと歩いていく。
なんだ空耳か、と思って再び歩き出したとき、またもや声がした。
『すみません、そこの方。私です、ポストです』
見てみると、広い歩道の車道側にポストが立っていた。街中でよく見かける投函口が大小2つあるタイプのポストだった。まさかとは思いつつもポストへ近づいて、一度ためらって周りを見渡したあと、意を決して声をかける。
「....呼びました?」
『やはり気付いてくれましたね。本当にありがとうございます。今あなたの脳内に直接語りかけています』
「ってことは、今あなたの声が聞こえているのは僕だけ?」
『そうです』
「僕が頭の中で考えていることを読み取ったりはできない?」
『残念ながらそれはできません。声に出していただかないと。私はただのポストですから』
「いや、しゃべれる時点でただのポストじゃないと思うけど...」
僕はもう一度周りを見渡す。
「それだと、傍から見たときに、僕がまるで一方的にポストに話しかけている変な人だと思われないかなと思って」
『その可能性は否めません』
「まじかー」
『あの、実は、お願いしたいことがありまして、少しお時間を頂いてもいいでしょうか?』
居酒屋のキャッチとは違って、向こうが僕についてきてしつこく話しかけてくる可能性はゼロなので、僕はその時点でその場を立ち去ることができた。でも、急いで帰る気もさらさら無かったので、しばしこの変わったポストの相手をすることにした。
「いいですよ。どうしたんですか?」
『あの、それが、ある人に手紙を送りたいと思いまして』
ある意味では最もポストらしく、またある意味では最もポストらしからぬ話だと思った。ただ、いずれにしてもとてもメルヘンチックで、僕はがぜん興味が湧いてきた。ふと、さっきから左手に持ったままだった手帳サイズのノートが目に入った。会社説明会などでメモを取る用に使っているものだ。
「このノートをちぎったやつでよければ。というか、もしかしてこれを見て僕を呼び止めたとか?」
『その通りです。図々しいお願いなのは承知ですが、これから伝える言葉を書き留めていただけませんか?』
「なるほど。分かりました」
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僕はノートの一番最後のページをなるべく丁寧に千切りながら訊ねた。
「ちなみに誰に宛てたどんなお手紙なんですか」
『あの、それが、お恥ずかしい話なんですが、告白の手紙を...』
「えぇラブレター!?」
『そうなんです』
「そ、そうなんだ... お相手は、やっぱりポスト?」
『いやそんな訳ないじゃないですか。毎朝犬を連れてここを通る女性がいまして、まあ雨の日なんかは来ないこともありますが。そうそう、その犬がたまに私にマーキングをするんです、いや別に嫌な訳じゃありませんよ、というか何ならちょっと興奮しますよね、といってもマーキングされた経験があなたにおありかどうかは分かりませんが、私はただのポストですから』
止まらなくなったポストの話は途中から耳に入ってこなかった。何だかとんでもない話に巻き込まれているようだ。
もしかしたら、ポストが好きになる相手は同じくポストだろうというのは、いささか浅はかだったかも知れない。そもそも、ポストは人間のように集まったり群れたりする訳ではないから、他のポストと出会う機会なんてないのだろうか。自分の常識が揺さぶられる音が聞こえる。考えれば考えるほどよく分からない。
ポストが人間に恋をする。確かに、誰が誰を好きになろうと自由だ。”自由”というよりも、そもそも自分では”制御不能”だ。あらゆる物事に論理《ロゴス》を持ち込んで、種の総体としての持続可能性を高めようとし続けてきた人類が、未だに論理《ロゴス》という乗り物で1mmたりとも踏み込めずにいる領域がそこだ。
とはいえ、いま目の前の問題として、僕が代筆したラブレターがその女性に届いたとき、何がどうなってしまうのか。いや、そもそもこのポストは女性の住所や名前などを知っているのだろうか。
『でも私、彼女の名前を知らないんです。あの、でも、住所は分かるので多分届くんじゃないかなと思っています(※1)。集められた郵便物がどう仕分けられてどう配達されるのかはあまり存じ上げません。私はただのポストですから』
「なるほど。住所はどうやって分かったの?」
『友達にカラスがおりましてね、この前彼女が家に入るところまで尾行してもらったんです』
つまり、このポストはカラスの脳内にも直接語りかけることができ、カラスの鳴き声を理解することができ、そしてカラスはとにかくめちゃくちゃ賢いということになる。それにしても、カラスに尾行されるとはだれも考えないだろう。仮に将来、本物のカラスと全く見分けがつかないロボットが実用化されたとき、僕はそれに尾行されていることに気付けるだろうか。
そうこうするうちに、僕はポストが伝える言葉を記していき、手紙が完成した。初めはポストの側面に押し当てる格好で書こうとしたが、くすぐったいと文句を言うので、分厚い会社案内をバインダー代わりにした。ちなみに、その文面はどんなものだったかというと...
...やめておこう。これはあのポストと僕だけが知っている不思議な出来事なのだから。
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「さて、手紙は書けたから、あとは封筒と切手か。履歴書用の大きい封筒しか持ってないし、どうせ切手は買わないといけないから、ちょっと行ってきます」
そういって僕が鞄を持ち上げたとき、ポストが言った。
『... ちょっと待ってください。』
「いや遠慮しなくていいよ。せっかく書いたんだから、投函までやらないと」
『あの、お気持ちはありがたいですが... やっぱり大丈夫です。いま書いてくださった手紙はそのまま私の口に入れてください』
「それだと届かないんじゃない?返送もできないから郵便局で捨てられちゃうかも」
『いいえ。集荷袋とは別の、もっと奥のところに大事にしまっておきます』
「え、そんなことができるの」
『私はただのポストですけど、投函口の先にはみなさんが考えているよりもずっと広い世界があるんです』
ラブレターはただ書くだけでも悶々とした気持ちがすっきりすると言われている。そういう僕も、ずっと昔、未遂事件を起こしたことがある。クラスの女子に宛ててラブレターを書き、書き終わったら急に恥ずかしくなってしまい、家で捨てたら親に見られるかも知れないと思い、他のゴミに紛れさせてコンビニのゴミ箱に捨てたのだった。いまのポストはまさにそういう状態なのだろうか。
「本当にいい?このまま投函するよ?」
『はい。お願いします!』
手紙を投函するとき、自分の手が手紙の重力を感じなくなる瞬間、いつもちょっとだけ不安な気持ちになる。必着日を過ぎてしまったらどうしよう、内容に誤字があったらどうしよう、図らずも読んだ相手の気分を害してしまったらどうしよう... でも、そういう不安はすべて、手紙が通信《コミュニケーション》である以上、送り手が背負う必要のあるものだ。
でも、このとき、きっと誰にも届くことのない手紙を投函する瞬間は、不安な気持ちは一切なくて、8月の早朝の空のような清々しい気持ちに満たされていた。
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『あの、実は、あなたにお願いしようと思ったのにはもうひとつ理由がありまして』
「えっ、何?」
『ときどき立ち止まってスマホを見ていらしたので、この辺りに来られるのは初めてなのかなと。毎日ここを通る人は足早に通り過ぎるか、ずっとスマホに目を落としたままかのどちらかですから。ここを歩く人たちの様子を眺めることが唯一の楽しみみたいなものなんです。私はただのポストですから』
「なるほど」
『毎日ここを通る方にこんなお願いをするのは、流石にちょっと、気まずいというか。私は照れるとすぐ赤くなってしまうので』
「あはは。これ以上赤くなっちゃうのか」
確かに、一期一会だと分かっているほうが案外積極的に話ができることが多い。むしろ、同じ部活の後輩や、バイト先の先輩など、週に何度も顔を合わせている人のほうが会話をすることが少なかったりもする。その気になればいつでも話せるから、というある種の怠慢なのか、あるいはこのポストが言うように、頻繁に会うからこそのある種の遠慮なのか。
その理屈で言えば、さっきの面接は、もっと積極的に話ができてもよかった筈だ。と思ったところで、自分がいま就活中であるという事実が押し寄せてきて、急に現実に引き戻された。そろそろ帰らなければ。
「ところで、君はいつからここに立ってるの?」
『ええ、かれこれ47年になります。まあ、私はただのポストですから』
気まずい空気が流れてしまった。僕は途中からついタメ語になっていたけれども、自分の倍も年上だったとは。もっともポストの平均寿命が分からないから、人間換算で何歳くらいなのかは分からないけれども、別れ際に余計なことを訊いてしまったとつくづく反省した。
「そうなん...ですね。まあ、これからもお元気で」
『ありがとうございます。本当にありがとうございました』
僕はノートやペンを鞄にしまい、スマホを開いて改めて駅の位置を確かめ、右手を顔の高さまで挙げ、「じゃあ」と短く挨拶をして歩き出した。
すれ違ったサラリーマンと思しき男性が驚いた顔で僕のほうを見ていたような気もする。
<了>
※1 原則としては、宛名もないと郵便物は届きません。