ベティの雑記帳

つぶやき以上ブログ未満

空気清浄機にまつわる話

ようやく空気清浄機を買った。

 

どうして『ようやく』なのかと言うと、ずっと前から欲しいと思っていて、ネットで調べたり電器屋さんに見に行ったりもしておきながら、結局買わないままでいたからだ。部屋には去年のモデルのカタログがある。

 

なかなか購入に踏み切れなかった理由は、どのメーカーのどの型式にすればいいのかをずっと選べなかったからだ。空気清浄機の性能を示す指標の最たるものは、規格(※1)で定められた条件で何畳の空間を何分で清浄できるかという「適用床面積」だ。なので、それを置きたい部屋の大きさを基にして、ある程度までは絞り込むことができる。だが、問題はその後だ。

 

国内ではおもに、S社・P社・D社の3社が各種ラインナップを揃えている。同じ適用床面積で、同じくらいの価格で、3社3様の製品が並ぶと、統一的な尺度で較べることが急に難しくなってしまう。店頭でそれぞれの見本品を前にして、ついに店員さんも説明することがなくなって2人の間に沈黙が流れるレベルまで悩んだ結果、僕はD社の直方体を買って帰ることにした。

 

決め手が2つあった。ひとつは、吸込口の位置だ。背面に大きな吸込口を設けている装置も多いなかで、僕は側面と前面から吸気するタイプを選んだ。当然ながら、空気清浄機は壁の近くに正面を向けて置きたいので、吸込口が背面だったらやはりコンダクタンスが良くないように思えてならなかったからだ。実際に計測したら差はないのかも知れないが、空気清浄機まわりの気流の速度ベクトルマップが見えた気がしたからには、それに従うほかなかった。

 

もうひとつは『それを製造しているのがどんなメーカーなのか』ということだ。僕は、あるものを選ぶときに、その分野のみを専門としている人たちがつくったものをより高く評価したいというポリシーを持っている。空気清浄機について言えば、テレビやドライヤーなど多様な製品群を製造しているS社やP社よりも、空調機器を専門としているD社の製品を選びたい、という判断になる。たとえシェアが小さくても、その分野の売り上げだけで成り立っているメーカーのほうが、ほんとうの技術力において優るものがあるのではないかと考えているからだ。

 

もちろん、「技術」を評価するとき、比較するものは「数値」だ。重さや速さなどの物理量で表現できるものは当然のことながら、人間の感性に依存するようなものであっても、『AとBのどちらがより使いやすいですか』や『快適さは5段階でいくつですか』というように数値化して収集することが可能な問いに置き換えて扱う必要がある。

 

しかし、その結果として表れる数値は、あくまでその技術をその方法で評価したときの数値であって、その技術のほんとうの姿を映しているものではない。技術者の端くれとして、技術とはもっともっと奥深いものであると信じたいし、それをより深く理解しようという気持ちを持ち続けたいとも思う。

 

ここまで強力な決め手がありながら、それでもずっと迷っていたのは、ひとえに値段の問題があったからだ。最後の2択にまで絞り込んだとき、D社製はS社製よりもざっくり1.5倍ほど価格が上だった。より高いものを買えば性能がいいのは当たり前だし、そもそも自分の部屋に対してオーバースペックになるのではないかと悩んだ。

 

難しい選択肢に直面したとき、『どっちも選ばない』というのは万能の答えだったりもする。実際、空気清浄機なしでこれまでの春を乗り切ってきたのだから、こんどの春も乗り切ることができるはずだ。でも、『どっちも選ばない』という、判断をしない判断が常套手段になっている自分に対して若干の嫌気を憶えるようになってきているので、ちゃんと判断をできた今回の自分を少しは褒めてあげようか、とも思う。

 

病院でそういう検査を受けた訳ではないが、僕はほぼ間違いなく花粉症だと思う(※2)。最近も、夜だし風がないからとベランダのサッシを全開にしたらすぐに喉が痛くなったし、思えば大学生になった辺りから、3月になると風邪の症状が数週間も続くようなことがあった。時には微熱があることもあったのだが、熱さえなければ大丈夫とサークルの春合宿に参加して、マスクをしながら大声で歌って全然治らないという、今となっては書くだけでも後ろめたさのある振る舞いをしていたこともあった。これからの春は、少しでも健康かつ快適に過ごせればいいなと思う。

 

ところで、この空気清浄機に決めますと言ったあと、店員さんは「アパートのワンルームなら充分なスペックですし、もっと大きな部屋に引っ越しても使えると思いますよ」というようなことを仰っていた。交換式の集塵フィルターは10年保つらしい。僕は、心の中で、大学生の一人暮らしみたいないまの部屋を離れる予定はないんだよな、と呟いた。

 

小さな頃から、自分は少なくとも20代のうちに結婚することはないだろうと漠然と思っていたので、同年代のみんなが結婚をしようが子供ができようが、自分は自分のペースを乱されることなく生活していけると考えていた。でも、実際には、身近に感じていた人が結婚などの大きな転機を迎えているのを見かける度に「で、お前はどうすんの?」と誰かに問いかけられているような感覚になる。特に、20代後半になってからの変化に乏しい生活がいつまで続くのだろうかと考えるときには、言葉にならない叫び声をあげたい衝動に駆られてしまう。

 

そもそも、生命の本質は「変化」である。成長と呼ばれているものも、老化と呼ばれているものも、そこにあるのは「変化」だけだ。もしかしたら、ウイルスの変異でさえ同じように扱うことができるのかも知れない。だから、変化に乏しい生活というのは、生きていることに対する実感が乏しい生活でもある。

 

今日のこの日と1年前のこの日は違う1日であり、昨日と今日もまた違う1日である、ということに対する実感がなければ、明日は今日とはまた違う1日になるという信念を得ることができない。その信念がなければ、この困難な時代を正面切って進むことは難しい。

 

もっと言えば、時間的な変化の一切がなくなると、時間の「有限性」は確かめることができなくなる。さまざまなフィクションで描かれているような、永遠の命であるとか、14歳の姿のままで生き続けるとか、時間がループして同じ1日が何度も何度も繰り返されるとか、そういう場面を想像してほしい。老いることも死ぬこともなくなれば、「いま」やろうとしていることは必ずしも「いま」やる必要がなくなる。そして、もしも無限の時間を手にしたとき、ついに時間の価値はゼロになる(※3)。

 

現実では、あらゆる生命の寿命が有限であり、「いま」はこの1回しかない。それを理屈では解っていても、その実感が伴っていないと、『いまを大切に生きる』というのは口で言うほど簡単なことではない。

 

やわらかい陽射しは花粉のほかにもいろいろなものを連れてきた。入学進級卒業就職異動退職など、多くの人に大きな変化や小さな変化が訪れる季節だ。もしかすると、姿の見えない変化の予感に期待よりも不安のほうがはるかに大きくなっている人もいるかも知れない。けれども、変化を起こし変化を感じることができるのは生命の特権だから、躊躇いなく進んでみることをお勧めしたい。僕も、ここから一人で起こすことのできる変化を、なにか企んでみようかな。ちょっぴりオゾンの臭いがする(※4)気流を顔に受けながら、そんなことを思う。

 

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月まで3キロ@浜松市天竜区

 

(※1)日本電機工業会規格 JEM1467(家庭用空気清浄機)

(※2)「花粉症について」:みんなの医療ガイド | 公益社団法人全日本病院協会

(※3)それでもやっぱり、人は死ぬ その現実が導く理想の生き方:日経ビジネス電子版

(※4)ストリーマ放電により微量のオゾンが発生するため、吹出口からニオイがすることがありますが、ごくわずかであり、健康に支障はありません。(DAIKIN 加湿空気清浄機 取扱説明書)