ベティの雑記帳

つぶやき以上ブログ未満

踊らされて生きていきたい

■ カッポレダンス

 いまからちょうど100年前の1920年、「日本及日本人」という雑誌の中で「百年後の日本」と題する特集が組まれた。その名の通り、100年後の日本はどのようになっているかを小説家や大学教授、宗教関係者などの有識者およそ370人が予想したものだ。

 その内容はというと、

 ・東京では電線や上下水道が地下に埋設され、鉄道も地下を通る

 ・郵便や電報に替わって電波を使って通信をする

 ・女性の交通巡査や代議士が登場する

というようなものから、

 ・折り畳み式の飛行自動車ができる

 ・火星との行き来ができるようになり、富士山は火星に向かう飛行機の停留場となる

 ・世界が統一されて中央政府ができる

といったものまで多種多様なのだが、僕がいちばん心惹かれた予想はこれだった。

カッポレダンス。カッポレダンス。あまりにも語感がいい。

 

 さて、2020年の日本はどうなった?

 

 

■ ”うちで踊ろう”の件

 星野源さんが「うちで踊ろう」の動画をインスタグラムに投稿したのは4月3日のことだったので、そろそろ1か月が経とうとしている。最近はツイッターでコラボ動画を見かけることもほとんどない。そして、いわゆる「安倍首相と星野源さんのコラボ動画」が投稿されたのは4月12日の午前だった。カーテンを開けても薄暗いほどにどんよりとしたあの日を僕はしばらく忘れられそうにないので、この1章はどうしてもあの件について書かせて欲しい。

 

 僕は普段からツイッターに流れてくる音楽を聴くのが好きだ。それは、プロのアーティストの新曲のMVの一部だったり、世界のどこかの合唱団の演奏音源だったり、友人によるギターの弾き語りだったり、趣味としてシンセサイザーリズムマシンを蒐集している人の「こんな音が出ました」という報告だったりする。そんな僕にとって、星野源さんが編み出した素直なポップさに溢れるひとつのメロディが、それを聴いた人の音楽観に基づいて三者三様に解釈され、もとの姿とは違う形でまた表現されるというのがとても面白かった。具体的を挙げれば、合唱人はすぐさま4パートに書き分けるし、トラックメイカーはDAWに取り込むし、何らかの楽器のプレイヤーは自分のメロディを加えてスマホで動画に撮る。無数のコラボ動画は、そこに無数の音楽観があって、そのすべてがそこに存在する権利を有しているということを示していたと思う。

 

 その盛り上がりがネットを介して広く浸透し、僕も自分のアレンジを作ってみて、もし聴くに堪えうる形に仕上げることができたらしれっとネットに流してみようか、などと考えていたタイミングで、例のツイートが目に入ってしまった。

 「生理的に無理」というのは、あの感覚のことを指すのかも知れない。まずあのツイートを見た時点で、とてつもなく禍々しいものを見せられた気分になった。これは確実にヤバいヤツだと分かったが、これは義務だと思って最後までその動画を凝視した。それまでにいろいろなコラボ動画を見てきた訳だが、断トツで長い1分間だった。

 時間が経つにつれて、その動画を受けての各々の反応が見られるようになってきた。すると、「怒りが湧いてきた」とか「安倍総理いつも私たち国民のために一生懸命働いてくださってありがとうございます」とか「これは明確な音楽の政治利用であって歴史的にも云々」とか「表現の不自由展では表現の自由を訴えていた人たちがこんどは他人の表現に干渉しようとしてて草」とか「別に構わないけどセンスないね」といった具合であり、もう完全に訳が分からなくなってしまった。どのぐらい訳が分からなくなったかといえば、僕のTwitterはてなブログSoundCloudFacebookをすべてアカウントごと消してしまおうかと思ったくらいだ。この結論に至るまでの流れを最短で述べるなら、

まさか安倍さんやその周囲が物議を醸すことを目的として動画を製作した筈がない(コラムニストの小田嶋隆さんはその可能性も否定してはいないが)

 ⇓

純粋にウケると予想してやったことがこれだけの賛否両論を巻き起こしている

 ⇓

自分が面白いと思ったことやウケると予想したことを表現することによって誰かを怒り狂わせたり絶望的な気持ちに陥れたりする可能性が僕にもある

 ⇓

それには流石に耐えられないからすべての表現を辞めよう

ということになる。この問題を回避する方法は未だ見つかっていないけれど、僕は表現することを再開してしまっている。おかしいね。

 

 話を戻して、改めて考えてみて確実に言えるのは、無数のコラボ動画と安倍さんの動画では何かが決定的に違うということだ。そうでなければ、安倍さんの動画のときにだけ、その後数日間持続するほどの暗鬱とした気持ちになる筈がないからだ。ただし、この出来事は始めから終わりまで飽くまでも僕の感情の動きの話でしかないため、その何かを論理的に導き出すことができるかは分からない。実際、例の動画に対して何の感情を抱くこともなく、むしろ嫌悪感を示す言論に対して辟易していた人も少なくなかったようであり、この話はどこまで突き詰めても主観的にしか語ることができない可能性は高い。

 表現に対する受け止め方がこれだけ多様であるということは、逆に言えば、どのような表現でも誰かには絶賛され、同時に誰かには酷評される、ということなのかも知れない。何かを表現しなければ社会を生きていくことはできないのだから、それは救いであり、同時に絶望でもある。

 

 

■ ガチで踊ろう

 ところで、みなさんは普段どのくらい踊っているんでしょうか?好きなダンスミュージックやダンス動画はどのくらいあるんでしょうか?なかなか興味があります。

 先手は僕からということで、振りの難易度順に3つの動画を紹介しておきますね。

 

難易度:☆


tofubeats - 陰謀論 (CONSPIRACY THEORY)

 

難易度:☆☆


#10 Perfume【TOKYO GIRL】"ダンスレッスン" LIVE MC【練習用】

 

難易度:☆☆

時間がない

時間がない

  • KIRINJI
  • J-Pop
  • ¥407

 

 

■ "踊る"って何だ?

 つい最近まで「ダンスする」と「踊る」の違いが分かっていなかった。僕はダンスは全然できないので、バキバキにダンスしている人を見ると本当にすごいと思う。ディズニーのショーを見て心を掴まれるあの感覚は、オリンピックを観ていて画面に釘付けになるときの感覚ともしかしたら同じかも知れない。人間の身体(からだ)ってそんなこともできるのかという驚き。そのレベルまで行かなくても、「うちで踊ろう」動画には音楽はオリジナルのままでダンスコラボをしているものも勿論多くあったし、趣味でダンスができちゃうというのは素敵だなと思う。

 音楽に合わせて身体を動かすことを「踊る」と呼ぶのであれば、僕は踊ることが割と好きだと思う。決められた振り付けに合わせる俊敏さもないし、人に見られるのもいまだにあまり慣れないけれど、音楽と一体になるような気分を味わうのは昔からすごく楽しかったような気がする。

 

 そして、最近では、「踊る」ことは実はものすごくいいことなのではないかと考え始めている。よく言われていることだけれども、現代人の生き方は「意識」や「情報」に重点を置くあまり身体を軽視してしまっているのだと思う。昨年あたりからの筋トレブームもまさにそれの反動かも知れない。「踊らされる」という言葉があるように、しばらく踊り続けていると、もはや自分の意思ではなくリズムに衝き動かされて身体が動いてしまう瞬間というのがある。こうして意識を片隅に追いやって身体に主役になってもらう時間というのが、少なくとも最近の僕にとっては不可欠にまでなっている。

 

 踊らされて生きていきたい。

 

 

(参考文献)

[1] 2020年の日本、100年前にここまで見通した男 : 深読み : 読売新聞オンライン

  https://www.yomiuri.co.jp/fukayomi/20180105-OYT8T50023/

[2] 進士 素丸(@shinjisumaru) on Twitter

  https://twitter.com/shinjisumaru/status/1214450500591992833?s=20

[3] iamgenhoshino(星野源) on Instagram

  https://www.instagram.com/p/B-fFPKrBc-X/?utm_source=ig_web_copy_link

[4] 「空気の読めなさ」の原因は:日経ビジネス電子版

[5] バカの壁養老孟司):新潮新書