ベティの雑記帳

つぶやき以上ブログ未満

最近考えること三篇

<第一篇> 「思う」を超えて「考える」へ

 

間もなく衆院選の投票日がある。静岡県に住む人はその前に参院補選もある。自分ひとりが投票してもしなくても選挙の結果は全く変わらない、というのはあながち間違いではない。少なくとも、そう思ってしまうこと自体は仕方がない。しかし、そう思って実際に投票をしない人が何百人、何万人と集まると問題が起こる。有権者全体(母集団)の年齢や職業・価値観などの構成と実際に投票をした人(標本)のそれらの構成が同じにならなければ、投票結果の統計的な正しさが低下する。そして、若者の投票率が低いと指摘されているように、この標本のかたよりは実際に起こっている。

 

ここに「思う」から「考える」への転換の必要性がある。「自分の票だけでは何も変わらないだろう」というのは、視点が自分に張り付いたままのピュアに直感的な発想だ。それに対して、「同じように思って投票に行かない人がたくさんいたら何が起こるだろうか」というように、ある仮定を踏み台にもう一歩先へと思いを巡らせることで、それは主観を離れた思考になる。

 

さらに言えば、投票率の推移などのデータはインターネットで手に入る訳だし、投票率向上のためのPRなどが盛んに行われている様子を見たり、それに関する有識者の意見などを調べたりすれば、自分の考えがどのくらい合っていてどのくらい間違っているのかを知ることができる筈だ。この段階までくれば、調査や研究と呼んでも差し支えないのではないだろうか。

 

新型コロナウイルスのワクチンについての陰謀論とか、著名人に対するネット上での誹謗中傷とか、いじめの被害者と加害者にまつわる問題とか、発信者の主観にべっとり張り付いた考えが、あたかも真実であるかのように拡散されたり、あたかも全体の総意であるかのように個人に突き付けられたり、そういうことが頻発している気がする。「考える」という行為は、ほとんどの場合において「調べる」という行動がセットになる。その結論があらぬ方向へ向かう危険性を秘めているのは、自分の頭の中だけですべてが完結できてしまう「思う」という行為のほうだ。

 

もしも、この世界に暮らすほとんどの人が「考える」ということをしなくなったとき、新しい技術や思想はその価値を失い、世界は少しずつ前近代化していくに違いない。今この時代はどうだろう?

 

まぁ、そもそも、このお話自体がどれだけ「思う」を離れることができているのか定かではない。検証を含めた「考える」という行為についてその本質を論じるなら、それだけで本が何冊も書けそうだ。

 

最近は仕事中にそんなことを考えながら、「やっぱり僕はものを考えるのが好きなのかも知れない...いまから博士号取って研究者にでもなっちゃおうかな~」なんていうことを考えている。いや、思っている。

 

 

 

<第ニ篇> 「死にたい」の正体

 

「死にたい」という独り言が確実に増えている。

 

こんな不気味な書き出しはあまり良くないかも知れない。できればもっと明るくポップにこの状態を表現したいが、実際に僕の口から出る言葉は他ならぬその4文字なので、どうすることもできない。

 

念のために言っておくが、僕の場合の「死にたい」というのは、「いまこの場所で自殺を図りたい」という意味ではない。じゃあどんな意味なのか?と自問するけれども、この答えがなかなか出ないのだ。「死にたい」の正体は分からない---このことは、メンタルの問題は決して”考え方次第”などではなく、まして”やる気”や”気合”の不足でもないということを示唆しているようにも思える。

 

「死にたい」という感覚は、いつでも僕の周りにいる訳ではない。例えば、僕が誰かと一緒にいるとき、ヤツは決して近付いてこない。それだけではなく、リアルで友人と会うような場合には、その前後しばらくの間、ヤツはどこか遠くにいる。オンラインで誰かと話をするときでも、少なくともその間ヤツは姿をくらましている。もしかしたら、誰かと一緒に暮らせばそれだけで解決する問題なのかも知れないが、その解決策はひとりでは実行できないというのが重要なポイントだ。

 

こうして書いてみることで何かしら発見があることを期待したが、どうやら収穫はなさそうだ。自分のメンタルの動きが自分で理解できないというのもおかしな話だと思う。もしかしたら、ヤツとは長い付き合いになるのかも知れない。ヤツが僕の理性より肥大化してしまうと僕の身体を明け渡すことになってしまうので、今後もそれだけは気を付けたい。

 

ところで、この話の冒頭でちょっと嘘をついてしまった。「死にたい」という感覚を明るくポップに表現したいなんて、僕は全く思っていない。明るくポップな表現しか受け容れてもらえない場所があるとしたら、それこそが不気味だと思っている。

 

 

 

<第三篇> このブログについて

 

ごく稀に「ブログ読んでるよ」と言っていただけることがあるのだが、これを対面で言われると、とてつもなく恥ずかしい。なので、僕からの返答はいつも「えぇ~あぁ...そっかぁ」というようなへにゃへにゃしたものだったに違いない。しかしながら、実際には、それを凌駕するくらいにとてつもなく嬉しくもある。いつも後から思い返してはひとりでニヤニヤしているので、是非とも安心してほしい。

 

確かに「このブログは読ませるために書いてるんじゃねぇ!」なんて息を巻いたこともあった気がする。でも、それは、流行りの話題や内輪ネタなどでなけなしのいいねを稼ぎにいったり、読み手が反応しづらいテーマを扱うことを避けたりはしないということを意味していて、実際には1人でも多くの人にリンクを踏んでもらいたいし、1行でも先まで読み進めてもらいたい。考えれば考えるほど自分がこの世界に〔gene〕を遺せる可能性はゼロに近く、ならばせめて〔meme〕をば、という、あくまでも利己的な欲求なのだと思う。

 

「おもしろいコンテンツはおもしろい人間からしか生まれない」という壁に何度もぶち当たりながらも、つまらない人間がおもしろいものを作り出すべく四苦八苦するその様子を、これからもどうぞご覧あれ。

 

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