ベティの雑記帳

つぶやき以上ブログ未満

「言えないことを書く」

 「言語はもともとコミュニケーションツールとして生まれたのではなく、思考のツールとして生まれたのだ(※1)」という説を最近目にした。人間以外の動物における鳴き声の成れの果てが言葉だと思っていたので、やっぱり言葉は伝達のツールとして生まれたものでは?という疑問が残りはするのだけれど、それを上回って腑に落ちる感覚があるから不思議だ。

 

 言われてみれば、いま僕が書いているこの文章は伝達を目的とはしていない。「言えないことを書く」ということを、僕はこの雑記帳のコンセプトにしている。それは、自意識の深い部分に言及する必要があるから対面の会話では恥ずかしくて到底言えないというものもあるし、反感を買われたり嫌味に思われたりする可能性を懸念してSNS上では書けないというものもあるし、ある考えについてきちんと伝えるためにはまとまった文字数が必要だからここで書くしかないというものもある。そう考えると、SNSの投稿というのは「書く」よりも「言う」に近い。

 

 この雑記帳を書くことに関してはいくつか謎がある。所詮は僕の内部の話なのだけれども、せっかくなので説明させてほしい。まず、何かを書き始めるときは極まって、今どうしてもこれを書かないと精神に異常をきたすんじゃないか?という感覚が目盛線を上回っている。実際、前回の投稿までの1~2か月ほど書くことを我慢してみたが、朝は眠くて仕方がなく遅刻ギリギリの時間に起きるのに夜は布団に入り電気を消してもなかなか眠れなかったり、やっと週末を迎えるときでさえ解放感やワクワクを感じられなくなったり、雑誌やオンラインで購読している新聞の記事などを全く読めなくなったり、気になる新曲があってライブラリに突っ込んであるのに再生ボタンを押す気力がなかったり...と、いつもとは明らかに違う状態になっていた。どうやら書くことには意味があるらしく、想定外であり謎だった。

 

 また、題材だけは決まっていても話の筋道はおろか結論すら決まっていないような場合のほうが何故か「公開する」ボタンをクリックする瞬間の快感が大きいというのも謎だ。こういうとき「アップする瞬間は射精のようだ(※2)」のフレーズが本当にしっくりくる。

 

 何故こうなるのか。冒頭の説を読んだときにふと気付いたのは、「言えないことを書く」という作業は思考そのものだということだ。これまでは「言えない」理由として他者の反応などを想定していたけれど、そうではない。書き始める時点では言葉で説明したくてもできなかったような事柄でも、書いたり消したり入れ替えたりを繰り返すうちに思考が整理されていき、文章としてどうにか読めるものが出来上がる頃には書き始めた時点よりも思考を一歩先へと進めることができる。

 

 こんなことが可能なのは、確かに言葉があってこそだ。言葉を文字と言い換えたほうが厳密かも知れないけれども。頭の中にあるものを言葉に当て嵌め、一文字ずつ外に引っ張り出してとりあえずそこに置き、その次に考えるべきことを考えたり、何度も何度も最初から読み直したりすることでこの文章もつくられている。

 

 要するに、頭の中で扱える情報やら概念やらの量なんてたかが知れていて、言葉そして文字の助けを借りることで人間はいろいろなことを思考できる、ということなのだと思う。そう考えると、文字を読めて書けるということは大前提としてとても大切だし(※3)、より多種多様で抽象的な事柄に対してもそれに適した言葉を当て嵌めることができる能力というのは思考力そのものと言ってもいいくらいに重要だ。

 

 最後に、これを書きながら浮かんだ疑問について。僕がこうして書く文章は、僕自身にとっては何らかの意味があるものらしいのだけれど、この文章を通して誰かに何かを伝えるという意図はない。この場合、この文章は「役に立たない」「不要不急である」と言うべきか?否か?

 

 

※1 

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※2 

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※3 識字率が重要であるということが頷ける一方で、障がいなどによって言葉を扱うことができない人がいることを忘れてはいけないなと思ったので注記。

 

小説が書けなかった話

 従来のスタイルで文章を書くことがひどくダサくてイタいことのように感じられて、その感じはおそらく正しいので、何か別のことをやろうと思って、小説を書くことを思い付いたのだけれども、やっぱり断念することにした。いまの僕には到底無理だと思ったからだ。

 

 どのあたりが無理かというと、女性を描くのが無理だった。せっかく自分の好きな通りに世界を構築できるのであれば、ストーリーの重要な要素を魅力的な女性キャラクターに担わせたいと思ったが、そもそも僕の理想の女性像って何だ...?と考えたときに、そこから一歩も先に進めなくなってしまった。

 

 僕がやろうとした方法が小説の書き方として正しいものかは存じ上げない。でも、近頃、ものすごいフィクションこそ現実をきちんと再構築しているな、とうっすら嫉妬することが増えてきたので、周囲の人間と自分自身を最小の分解能で観察することは、おはなしをつくるとき最初にやるべきことだと考えている。

 

 そもそも、これはずっと頭の片隅に引っかかっていることなのだけれど、幼少期にアニメやゲームをほとんど与えられなかったために、未だに僕はフィクションの楽しみをいまひとつ理解できていないのではないかと思うことがある。オタクという属性(?)が我々の世代のマジョリティとなって久しいけれども、ここで指し示されているのは飽くまでアニメやゲームのオタクなのだということを認識するたびに、何故か冬のすきま風のような疎外感を憶えてしまう。

 

 もちろん、これは単なる気にし過ぎかも知れない。時間は不可逆であり、自分の人生を対照実験にかけることはできないから、何がどのように影響したのかなんて分かる筈がない。これから先、何がどのように影響するのか、も。

 

 どうしても気になることがあるのならば、あり得たかも知れない自分の別の人生についてシミュレーションしてみればいい。実は、僕が小説を書きたいと思い立った根源的な理由は、まさにそれだった。いつかまた取り組んでみたいし、それまではダサくてイタい文章を綴っていこうと思う。

 

ひとりであるということ

 先日、自分の誕生日があった。もう27回目なんだから普通の日と同じ顔をしてやり過ごすべきだろうという思いはあったのだけれども、1か月近く前から「おっ、そろそろ来るじゃん」という意識が発生してしまい、結果的には普段通りとはかけ離れた過ごし方をすることとなった。

 

 今年の誕生日は日曜だったので、その翌日に有給休暇をとって、1泊の一人旅をしてきた。ただし、いまの情勢を踏まえると、行き先は県内で移動は自分の車、そして多くの人が集まるような場所ではないほうがいいと思い、久能山東照宮を目的地にすることにした。静岡で暮らすことが決まったときからずっと行きたいと思っていたし、何度もすぐ近く(静大静岡キャンパス)まで行っていたのに、これまでに行ったことがなかった。

 

 そして、あの辺りには東照宮と動物園のほかに何があるのかと調べていたとき、検索画面に「日本平ホテル」の文字列を見つけた。そして僕は次の瞬間にはもう宿泊の予約を済ませていた...と言いたいところだが、予約ボタンを押すまでに正直かなり悩んだ。夕食朝食付きのいちばんリーズナブルな部屋で3万円弱という金額を「ひとりでコース料理食うとか何がしたいのか分からん。マジで金の無駄」と考えるか、「20代後半にもなってその程度のことで大袈裟ですね。あなたはこれまで泊りで出かけるときに野宿でもしていたのですか」と考えるかは個々人の価値観によるのだけれども、そのどちらにも属さない考えが以前から僕の頭の片隅に浮かんだままだったので、結局はそれに従うことにした。

 

 それは、少し勿体ぶった言い方をするなら、自分が知らない世界は身近な場所にまだまだたくさんあるのではないか、という考えだ。この感覚をうまく説明する言葉がなかなか見つからないのだけれども、例えば、東京に出れば自分が活躍できる場所が必ずあると考えたり、ただ海外に行きさえすればそのまま日本にいた場合よりも価値ある人間になれると考えたりするのは、ここで言う僕の感覚によるものとは対極の態度だ。そして、この感覚のために、僕はこれからの進路についてかなり思いあぐねる羽目になっているのだが、それはまた別の話である。

 

 さて、話を戻すと、日頃は自分の衣食住にかかる支出にかなり消極的な僕にとって、27歳の誕生日の夜は本当に贅沢な一夜になった。どんな種類の贅沢であるかを一言で表すならば、「余白」の贅沢だと思う。それは、大きな皿にレイアウトされた料理であったり、それがテーブルに届くまでの時間であったり、大きなテラスの向こうに広がる清水の夜景とこちら側を隔てる広い庭園であったり、あるいはクイーンサイズのベッドと2セットの枕であったりした。余白のある贅沢というのは、おそらく本物の贅沢なんだろうなと感じた。

 

 このとき同時に強く実感したのが、自分はいま「ひとり」であるという事実だった。付き合っている人もいなければ普段から会える友達が同じ街に住んでいる訳でもない、同居している家族もいないし、社宅や寮ではないので一緒に住んでいるのは全く知らない人たちであるといった理由から、比較的高純度な「ひとり」に身を置いているのがいまの僕であると自分では思っている。そして、「自分はひとりである」という感覚は一般的にあまりよいものではないとされているし、僕もそう思う。確かに感染症のリスクは低いかも知れないが、それと引き換えに何かのリスクが高まっているのではないかと想像してしまうこともある。夫婦もしくはカップル、子ども連れなどが目に入ると、自分の状況が相対的に浮かび上がってきて意識に侵入してしまうというのは、やはり避けられなかった。

 

 「自分はひとりである」と感じることなく暮らしていくための方法は、大きく3つに分けられると思う。ひとつめは、誰かと一緒に生活をすることだ。これはおそらく説明不要であり、もっとも根本的な対策でもある。実際、徐々に高齢になりつつある親のことなどを思えば、自分の生まれ育った家もしくはその近くに住んで、そこで一緒に暮らしてくれるパートナーを見つけるというのがもっとも満点に近い解答だろう。どちらも実行できていない僕にとっては、そのいずれかもしくは両方ができている人というのは本当に尊敬の対象だ。

 

 ふたつめは、「自分がひとりである」という感覚を忘れられるような行動をすることだ。今回の旅行でも、口にしたカクテルがおいしかった瞬間、展望台に上って目に映った景色が美しかった瞬間には、自分がひとりであることに対するネガティブな感覚は消え去っていて、むしろその瞬間を独り占めできることに対する優越感さえあったようにも思う。もしかしたら、そういう瞬間があるという事実が、ひとりのまま生きるということへの大きなモチベーションになっているのかも知れない。

 

 最後のひとつはというと、人はひとりであるときも決してひとりではないという真理を知るという方法だ。何を言っているのかと怪しまれていると思うけれども、これ以上の説明はできない。なぜかというと、僕にはその感覚が分からないからだ。もし本当にそういう感覚があってそれを感じ取ることができるのならば、それはもう悟りの境地なのではないかと思う。それがなかなかできないから、ふとした瞬間につらいや死にたいといった言葉が口を衝いて出る。

 

 ところで、一人旅で出会うおいしいものや美しいものがあれほどに心に響くのはなぜだろう。今回ふと思ったのは、「ひとり」であるということは自分の中に充分な「余白」がある状態なのではないかということだ。そうであるならば、「ひとり」で生きるということは、ある意味においては本物の贅沢なのかも知れない。

 

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Fig.1 マティーニ

 

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Fig.2 サービスショット(?)

 

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Fig3. 日本平ホテルからの富士山

 

引用集 '20

サラリーマンというのは、給料の出所に忠実な人であって、仕事に忠実なのではない。職人というのは、仕事に忠実じゃないと食えない。自分の作る作品に対して責任を持たなくてはいけない。(バカの壁養老孟司

 

 

 

85歳の千代さんは言いました。「警備員は立ってることが重要なの。居てもいなくても同じじゃない。人がいれば、車も歩行者もみんな気をつける。仕事に意味があるからお金をもらえるんだよ」(アナザーノート 朝日新聞デジタル2020年12月8日/浜田陽太郎編集委員

 

 

 

組織の改革についての議論は、その議論の形じたいが改革への方向を先取りするものでなければならない。組織内の意思疎通を図ろうというのなら、それについての議論じたいがすでにこれまでとは違う形になっていないといけない。たとえば発言しやすいよう座席のレイアウトを変えるとか、いずれの世代も等しく参加できるような仕組みにするとか。(「自由」のすきま/鷲田清一

 

 

 

数学はまた、たいへん役にたつものです。数学が役にたつというと、みなさんは、計算をうまくして、もうけを大きくすることだと考えるかもしれませんが、それとはまったく違ったことを意味しています。数学の本質は、そのときどきの状況を冷静に判断し、しかも全体の大きな流れを見失うことなく、論理的に、理性的に考えを進めることにあります。数学は、すべての科学の基礎であるだけでなく、私たち一人一人が人生をいかに生きるかついて大切な役割をはたすものだといってもよいと思います。(好きになる数学入門/宇沢弘文

 

 

 

岩倉使節団の参加者たちが、不平等条約改正の障害になる、と懸念したほどに、「カッコ悪い」ことは、当人を侮りの対象とさせ、対人関係を困難にさせる。(「カッコいい」とは何か/平野啓一郎

 

 

 

 自己拡張技術は大別すると「量的拡張(Enlarge / Physical Augmentation)」と「質的拡張(Enrich / Kansei Augmentation)」の二つに分けられる。量的拡張とは、身体に関する力・速度・数などの物理的な量を拡張することであり、分かりやすい例で言えば、メガネや補聴器、義手・義足などが該当する。(中略)

 一方、質的拡張は、感性や感情などのヒトの内面的な部分の拡張になる。楽しさ、嬉しさなどの感情を良い方向に動かすことや、集中力、創造性などの感性に関する能力を拡張したり、内に秘めた状態になっているものを引き出したりすることを目指している。(安藤健,Well-beingへの貢献を目指す自己拡張技術,日本機械学会誌,Vol. 123,No. 1219(2020),pp. 22-25.)

 

 

 

旅は謎、とナイルの民は言った

だが謎は<世界>の側にはない

ただ旅をしている<私>の側にあるだけだ

(天涯 1 鳥は舞い 光は流れ/沢木耕太郎

 

 

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以上、ことしの、出会った瞬間にビビっときた言葉たちでした。

こうして並べてみると、自分はいまどんなことについて疑問あるいはまだ疑問にもなっていないモヤモヤを溜めこんでいるのかが分かる気がします。

来年もいろいろと読んで、ぐるぐると考えて、細々と綴っていきたいので、覗きに来てもらえたら嬉しいです。

 

出でよ!イデオロギー!

序章 ー 夏休みの自由研究

 夏が来ると毎年思うのだけれど、遠州の日差しは宇都宮のそれよりも強い放射エネルギーを持っているような気がしてならない。例年は「うわー当たりたくないなー」としか感じないけれど、今年は梅雨が長かった(※1)ので、「当たりたくない!でもまぁ夏らしいから許す!」と心の中でわめいている。

 

 今回の投稿のタイトルを思い付いたのは、まだ外に出るときにコートが手放せなかった頃のことだ。こんなに暑くなるまで放置していたのは、ストーリーを組み立てる難しさ、資料を集める煩雑さ、それに加えて、僕が得るものが何もないどころか失うものすら出てくる可能性があるというリスキーさが書き始める前から予想できたからだ。

 

 お察しの方もいるかも知れない。今回の主題はズバリ『政治』だ。

 

 居酒屋でタブーとされる三大話題(※2)のひとつである。酔客同士の殴り合いの喧嘩が始まっては一大事だ。申し訳ないけれども僕のほうはすでにアルコールが回っているので、血の気の多い方はここまででお引き取り願えると非常にありがたい。

 

 思考というものは、得てして、紙に書き起こしてみるまでは同じ高度で旋回を続けてしまう。これはなかなかのストレスであり、最近はこの思考を一刻も早くどこかに着地させたいという衝動に駆られていた。きれいに着地できるかどうかはまだ分からないけれども、どこへも出掛けられずに暇を持て余した夏休みの自由研究、よければお付き合いください。

 


水曜日のカンパネラ『桃太郎』

 

 

第1章 ー What is イデオロギー

 さっそく今回の主役に登場してもらおう(※3)。『イデオロギー』という単語を知らない人は少ないと思うけれど、ここで改めて意味を確認しておく。僕がいくつか調べた中では三省堂による解説がいちばん簡潔で分かりやすかった。「3分クッキング」とは違い、この解説を読むのに10分はかからないことと思う。

 

dictionary.sanseido-publ.co.jp

 

 哲学上の厳密な意味はここでは置いておくとして、以下の2点だけは押さえておいてほしい。

イデオロギーはものの考え方や行動の仕方に制約を与える

イデオロギーの内容は階級や性別などの社会的立場によって決まってくる

 

 社会的立場の具体例としては、ここでは国家・階級・党派・性別が挙げられている。これらの要素は自分で決めるものだろうか?それとも生まれながらにして決まっていて、自分の意志ではどうすることもできないものだろうか?

 

 生まれながらの社会的立場にとてつもない矛盾を感じている場合には、自らの努力によってそれを変えることは確かにできると思う。トランスジェンダーの方にとっての性別はそれに当てはまるのかも知れない。法的に性別を変更するにはかなり厳しい条件が課せられているから(※4)、それが叶わずとも社会的には戸籍上の性別と異なる性を生きている人というのが相当数に上るのだろうと想像する。

 

 なにも性自認の話に限ったことではなく、現実世界のあらゆる物事には分布があってそれ故の多様性があるのだから、僕の力量で一括りにまとめることには無理があるだろう。ただし今回は政治の話なので、どんな人たちがマジョリティに該当するかということに限ってここは話を進めよう。

 

 そうすると、社会的立場を自分の意志で変えることはかなり稀有と言っていいし、そもそも普段の暮らしの中で自分の社会的立場を意識すること自体がほとんどないのではないだろうか。

 

 なぜそう言えるかというと、大きな社会の中には局所的な小さな社会がいくつも形成されていて、小さな社会どうしは、僕たちが普段思っている以上にはっきり分断されていると考えるからだ。他者を参照しなければ自己を認識することはできないから、分断された小さな社会の中だけを見続けても、大きな社会における自分の立ち位置を理解することはできない。

 

 具体的な話をしていこう。「大卒と非大卒」というのは、現代日本における大きな分断のひとつだ(※5)。もっとも、幼い頃からの実感としてこの感覚を持っている人も多いのだろう。家族や親戚のほとんどが大卒以上の学歴を有しているためか、僕がこの分断をリアルに感じ取ることができたのは、会社に入ってから、非大卒者が多くを占める現場での仕事を経験したときだった。大卒者は非大卒者を、非大卒者は大卒者を自分達とは(良い/悪いではなく)大きく異なる存在だと認識しているし、同じ会社でありながら給与に大差が生じることも当然と考えている。

 

 これは、純粋に、10代から20代にかけて学んだ時間と量の差によるものなのか。僕はここに社会的立場の違いが生じていると考える。本来、学歴と社会的立場は無関係であっても構わない。しかし、応募にあたって大卒以上の学歴を求められる仕事が増え、大卒と非大卒のボーダーラインはそのまま職業選択に直結するようになり、ひいては生涯年収にも大きな差を生むようになった。経済のレベルにある程度以上の差が生じてしまっては、もはやこの2者が同じ社会的立場にいることは難しい。

 

 ただし、普段の生活では、こういったことをほとんど意識しないはずだ。自分が所属する小さな社会の中のさらに小さな差異にどうしても視線を奪われてしまう。例えば、同じ会社で働いているのであれば、経済のレベルもほとんど同じであり、会社が都市にあるなら都市の生活、地方にあるなら地方の生活というように大雑把な生活様式まで同じになるはずだ。それだけ共通項が多ければみんな仲良しでもよさそうなものだが、実際には個々人の年齢や性別の違いなどによってその内部でいろいろな対立があることだろう。

 

 そのとき、個々人の差に注目することは無意識的にできても、共通項に注目することはなかなか難しい。それは、僕たちの普通の生活は小さな社会の中で完結していることがほとんどだからだ。小さな社会の外へ出ない限りはわざわざ大きな社会のことを意識する必要がない。結果的に、自分の社会的立場を意識する機会というのはほとんどないと言える。

 

 ところが、ここ最近は、小さな社会どうしの衝突による事件がたびたび発生している(※6)。その事件現場は、Twitterだ。

 

 あらゆる職業や学歴や所得、さらにはあらゆる人種や国籍を持つ人々がひとつに集うという「イッツ・ア・スモールワールド」的世界はあくまでも概念上のものであり、実現は不可能であったはずだ。インターネット自体は普及して久しいけれども、これまで発信する側に立つ人はそれなりに限られていた。しかし、SNSの普及によって、多くの人々が同じプラットフォームに集う状況が作られた(※7)。

 

 初対面の人と挨拶するときには、まずは共通の話題を探す。海外の観光地に行くときは置き引きに細心の注意を払う。このように、自分の所属する小さな社会から外に出るときはそれなりの心構えをするものだ。関西の駅のエスカレーターでは右側に立つ(※8)というのも同じかも知れない。いずれにしても、自分と相手は違う考え方を持つ人間であるということを理解した上で、相手を尊重し自分を守るためのふるまいだ。

 

 しかし、インターネット、特にTwitterではその心構えを持たずにどこへでもずかずか踏み込む人があまりにも多い。

 

 その結果として生じる事件の典型例が政治にまつわる論争だと思う。互いを「ネトウヨ」「パヨク」とラベリングしインターネット上で言い争う様子は、本来の政治的なディスカッションからは完全にかけ離れたものとなっている。これは、無理矢理に例えるなら自民党立憲民主党の会合を同じ会場で同時に開催するようなものだろうか。かつては、異なるイデオロギーを持った人々はきちんと棲み分けをして、必要なときにだけ顔を合わせていたはずである。これは、インターネットによってあらゆる人々が常時接続可能になったことで、起こるべくして起こっている争いだ。

 

 しかし、いわゆるネトウヨとパヨクの争いが人命に関わる事態になったというケースを僕はまだ把握していない。その点では、SNSでの「誹謗中傷」の問題のほうが遥かに深刻だ(※9)。これについては、何か取り返しのつかない事態が起こると一時的に議論が大きく盛り上がる印象がある(※10)。「相手の気持ちを考えよう」という言葉が声高に叫ばれることもある。それも大事であることは間違いないが、ここまでの議論を踏まえると、「まずは自分と相手それぞれの立場を理解しよう」というのが大前提ではないだろうか。これは、中高生で顕著なLINEなどの閉じたSNSで発生するようないじめ(※11)にも言えることだと思う。

 

 もっとも、大きな社会の中における自分自身の立ち位置を理解していないにも拘らず著名人に対して批判の投稿をするような人が、周りの人からいくら言われたところで、それを理解できるようになるとは思えない。かといって、これだけ顕在化している問題を放置する訳にもいかない。

 

 大事なのは、世界の大きさを知ることよりも、自分の小ささを知ることなのではないかと思うことがある。それを知るために日本一周や世界一周をする必要はない。自分の部屋から一歩出れば、そこにいるのは、自分から分かろうとしなければ決して分かり合えることのない、全く異なる考え方に基づいて生きている人ばかりなのだ。

 

 

第2章 ー 『中立』と報道

 せっかく文章を書くからには、なるべく分かりやすくて面白いものを書きたいという気持ちはある。でも、政治の話題が嫌がられる原因のひとつには、分かりにくくてつまらないから、ということがあるような気がする。それならば、政治を分かりやすくて面白いものにする工夫をすればいい。そういう取り組みはある。

 

www.nhk.or.jp

 

 Instagramを使った手法。今風のフラットデザイン。確かに分かりやすい。でも、僕は分かりやすさに潜むワナについてついつい考えてしまう。そもそも、分かりやすさの製造工程とはどのようなものだろうか。いまの僕の仕事となっている機械力学の場合をみていこう。

 

 ある機械を改良するにあたって、「運動(日常の言葉で言うならば『動き方』)」のメカニズムが解明できておらず、みんなが困り果てているとする。そういう場合は、機械を動かすときの条件を少しずつ変えながらデータを取っていく。それは、その機械の運動を引き起こすもとである「力のはたらき」を見抜くために必要な作業だ。データを取るためにはそのための装置が必要になるから、その装置の特徴や限界などは当然分かっていないといけない。また、どういう条件でどういうデータを取ればいいのか考えるときには、具体的な数式を思い浮かべていることが多い。これが思い当たらないときは決まって実験が難航するときだ。

 

 データを取得する装置はデジタルなものがほとんどだから、データはあくまで数字の羅列でしかない。2つの数量の関係であれば深く悩むことは少ないけれども、それが3つ4つとなってくると、どんなグラフにまとめるかという部分も腕の見せどころだ。このときのポイントは、データのどこに注目してほしいかを先に考えて、それが自分以外の人にも『分かりやすい』ようにすることである。

 

 やっとキーワードが出てきた。これが分かりやすい情報ができるまでの工程である。なんだか勿体ぶった書き方をしてしまったが、あらゆる学問分野に共通する基本のお作法ではないだろうか。つまり、分かりやすい情報を作るためには、その背景についての知識や経験が不可欠であり、ある主観に基づいたデータの強調や取捨選択が伴うということだ。

 

 政治の問題についても全く同じことが言えるのだと思う。記憶に残っているのは、きゃりーぱみゅぱみゅさんが検察庁法改正に抗議するツイートをした結果、多くの批判にさらされて、当該ツイートの削除、謝罪のツイートに追い込まれた件である。

 

togetter.com

 

 この一連の出来事をどのように評価するかはまさしく個々人のイデオロギー次第なので、そこは問わない。ただし、安倍首相と黒川検事長(当時)の関係性についての疑惑を伝える目的で作成されたと思われる、少女マンガの恋愛相関図風にデフォルメされた画像を転載したことは、いささか悪手であったと言わざるを得ない。『分かりやすい』ことは間違いないけれども、それは作成者の主観による情報の強調や取捨選択が行われた結果でもある。

 

 また、この画像は、風刺画としては申し分ないのだけれど、自分の主張の根拠のメインディッシュとして採用するには適さないように感じる。きゃりーぱみゅぱみゅさんが「歌手だから」「若い女性だから」政治のことをよく知らないだろうとは思わない(※12)。しかしながら、この画像をメインに持ってきたセンスを受けて、この人は検察庁法改正の論点をどこまで理解しているのだろうかと疑問に感じてしまう感覚は理解できる。

 

 そうすると湧き上がってくるのが、「政治のことをよく知らない人は政治について発言してはいけないのか」という議論だ。私見を述べるなら、中学校社会科レベルの知識があり、習慣的にニュースに触れている人であれは、自由に意見をしていいと思う。「誰もが自由に政治的意見を発信していい」とは考えないのは、教養が足りない人間の純粋無垢な思考は必ず視野が狭隘であり、時として非人道的でさえあるからだ。かなり尖った言葉を使ってしまったが、ここには自戒の念も込めている。

 

 分かりやすい情報には警戒しないといけないとなると、例えば安倍首相の答弁や菅官房長官の会見のようななるべく無加工の情報だけを集めるようにすれば、政治を正しく理解できるということだろうか?僕は、そこにはまた別のワナがあると考えている。

 

 ちょっとだけ機械力学の話に戻る。機械系の学生がもれなく習うのが、バネ・マス・ダンパ系と呼ばれる振動する機械のシステムである。そして、電気系の学生さんはRLC回路という3種類の素子からなる電気回路について確実に習うそうだ。機械装置と電気回路というまったくの別物だが、それぞれを数式で表現すると、なんと同じ形になる。だから、バネ・マス・ダンパ系の運動とRLC回路の挙動は類似している。このことを機械系と電気系の「アナロジー」と呼んでいる。

 

 こういうことを考えていると、政治にも政治の「力学」があるのではないかという想像が膨らんでしまう。僕たちが直接見て取れるのは機械力学における「運動」、すなわちあくまでも結果であって、運動が生じるための原因として目には見えない「力のはたらき」があり、これを見抜かないことには目の前で起こる政治的な現象を正しく理解できたとはいえないのではないか...

 

 もっと素直な見方もある。ある政治的な判断があったときに、それがどんな経緯で決まったのか気になるのは当然の反応だと思う。僕の肌感覚では、ここ数年はその疑問に事欠かない。なんでマスクを配ろうと思ったの?なんでそんなに安く土地売ったの?なんで敵基地攻撃能力っていう表現やめたの?

 

 僕の周囲にいるのは、大きな社会から見れば「インテリ」という層にカテゴライズして申し分ない方たちだと思う。そんなインテリたちの中で、最近、『中立』であることに固執する風潮が色濃いように感じている。内閣や省庁からの発表だけを受け取るようにすれば、確かに『中立』でいることは可能なのかも知れない。しかし、それだけではこれらの疑問の答えは得られない。政治の核心に迫ることはできない。

 

 必要なのは、政治現象における力学に精通した人や政治的な判断の推移を追い続けている人による解説だ。それは政治学者や評論家、記者やジャーナリストなどをおいて他にないと思う。

 

 Twitterには、数万人のフォロワーを擁して、イデオロギーを明白に打ち出して政治的な発言を続ける匿名アカウントがいくつかある。そういったツイートを目にすることがたまにあるのだけれど、情報のソースやその信憑性などが気になって内容がまったく頭に入ってこない。そういったアカウントをフォローしている人は、信頼性をどのように評価しているのだろうか。また、新聞やテレビなどの信頼性の高いメディアをきちんと参照しているのだろうか。

 

 ちなみに、僕のニュースの入手元を挙げていくと、①朝日新聞デジタルの有料会員、②日経電子版の無料会員、③Twitterで読売新聞オンラインのアカウントをフォロー、④テレビのニュースを適宜、といった具合で、読み頻度もこの順である。

 

 朝日新聞は今年の4月に僕の文章を要約して掲載してくれた(※13)ので、正直思い入れはある。しかしながら、インターネット上ではその「偏向報道」を問題視する声も目にする。僕が感じる朝日新聞のいいところは、他紙と較べて政治的な決断の背景を述べる記事が多いところ、新型コロナウイルスに限っても生物学者歴史学者など多様な専門性を持つ人からの寄稿を掲載しているところ、デジタルコンテンツにも力を入れているところ(※14)、悪いところは、政権にマイナスイメージを与える方向にミスリーディングな見出しを打つ場合があるところ、長い歴史の中で記者による不祥事も多いところだ。

 

 僕は、中立を求めることに意味はないと思っている。ときには強いイデオロギーから生じる極端な意見にもきちんと目を通しながら、そのニュースの「本当のところ」は何なのかを求めることのほうが遥かに大事だ。それが本当の「公平・公正」「不偏不党」ではないだろうか(※15)。

 

 とにもかくにも、複数の信頼性の高い情報源からニュースを得るという習慣はなるべく続けたいと思っている。僕の思想がそうさせているし、そこから得られた情報がまた僕の思想を形づくる。「本棚を見ればその人が分かる(※16)」というのは言い得て妙だと思う。

 

 

第3章 ー 僕が考える最強のリベラル

 イデオロギーという言葉を軸にここまでいろいろ書けたのは、僕自身が持つイデオロギーの姿がはっきりしてきたからに他ならない。一言で片付けるならば、僕はリベラルだということがよく分かった。本来は政治学上の厳密な定義があるはずの「リベラル」という呼称だけれども、最近のインターネットでは蔑称として無闇矢鱈に使われる場合すらある。そこで、僕の考えるリベラル、僕の目指す政治的なスタンスについて述べていきたい。

 

 リベラルにとって最も大事な要素は「クリティカルな思考」だと考えている。訳せば「批判的思考」になる訳だが、これだと誰かがやることに逐一ケチをつけるような、ネガティブなイメージが付き纏いそうだ。僕がクリティカルという言葉で示したいのは、権力の当事者による支配が及ぶ範囲からは離れた位置に立って、歴史的な文脈や相反する立場からの見方など可能な限り多くの要素を勘案しながら、そこに潜む問題点の指摘を行い、場合によってはよりよいアイディアの提起をするという態度だ。

 

 これを実践するために必要になるのは、広汎な知識と想像力、そしてこの世界のすべての人々へのまなざしだと思う。第1章で「イッツ・ア・スモールワールド」的世界という表現を使ったけれども、実現不可能な空想話として揶揄するつもりで言った訳ではない。ここで思い出すのは宮崎駿さんの言葉だ。

 

 『理想を失わない現実主義者にならないといけないんです。理想のない現実主義者ならいくらでもいるんですよ(※17)』

 

 僕の中では、自分の上に立つ権力に対しては、その暴走を許さないように監視する必要があるという考え方が常識だと思っていた。権力というのは国家権力だけには限らない。サークルに所属していればその執行にあたっている人たちが権力であり、大学自治寮の寮長をやっていたときには、上に立つのは大学当局だった(※18)。

 

 なので、新型コロナウイルス感染拡大の対応に対する不満が高まって、Twitter上でも安倍政権を批判する風潮が高まってきたときに、「そんなに批判ばかりぶつけたら安倍さんがかわいそう」という投稿が散見されたときには、正直驚いた。具体的な批判に対する反論ならまだしも、自分の社会的立場をどのように認識しているのだろう。

 

 僕の下卑た憶測によれば、保守的なイデオロギーを持つのは、現状の生活に特に不満を感じていない充分に裕福な人か、そもそもクリティカルな思考をする習慣がない人のどちらかだ。保守には保守の信条や論理があるのだろうけれど。

 

 イデオロギーの形成において無視できないと考えることがもうひとつある。自分がどのような人たちから影響を受けているのか、ということだ。僕の場合は、興味のベクトルが科学技術や音楽を中心とした芸術の方向にかなり偏っている。カッコいいと感じる人物も、当然のことながら、研究者、技術者、作曲家やDJなどが多くの割合を占めている。

 

 どれも、新しいことを追いかけたり、自分だけの表現を求めたりする性質の人たちであり、ある職業集団内での競争に明け暮れたり、マニュアル通りの仕事をしたりするような人たちではない。アーティストの界隈はリベラルが多いと言われることもあるが、僕は当然だと思う。それに加えて、昨今の研究費の削減や演奏会やライブの中止に対する補償の問題などが起こっているのはよく知られている通りだ。

 

 リベラルには宿命がある。それは、権力からの直接的な恩恵を受ける立場には立ち得ないということだ。逆に言うと、もし僕が国家公務員や経団連企業の総合職を仕事としていたら、ここまで書いてきたような考え方とは別の考え方をしていた可能性がある。大学院2年の夏が今の僕にとっては大きな転機だった訳だが、とっさの判断で取った行動の結果をこんな感じで生きている。

 

 1万字のロングフライトとなった。社会や科学が急速に発達しても、人間がそれに追従できていない場合があるように思う。TwitterをはじめとするSNSの普及によって見知らぬ人との政治的な議論ができるようになった訳だが、実際に起こっている出来事は成熟した民主主義のための議論とは程遠い。いきなり政治的な議論を始める前に考えるべきことはきっと山ほどある。いまこそ、出でよ!イデオロギー

 


DAOKO 「anima」MUSIC VIDEO

 

 

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※1 気象庁発表の令和2年の梅雨明け(速報値)によると、東海地方では平年より11日遅い8月1日ごろとなった。

 

※2 政治、宗教、プロ野球

 

※3 真の主役は「社会意識」かも知れない。日本大百科全書(ニッポニカ)に書かれているように、個々人が所属している局所的な社会の違いによって社会意識(個人意識、生活意識、社会心理にイデオロギーを加えた総体)が異なっていることがいろいろな問題の根源であると捉えるのがもっとも厳密だと考えられる。今回の主題をイデオロギーに限定したのは、①一般には非自覚的かつやや先天的な要素が社会意識の形成に与える影響の大きさにフォーカスしたかったから、②通例的な用法ではイデオロギーという言葉だけで狭義の社会意識の概念をカバーできると考えたから、である。

kotobank.jp

 

※4 日本の法律上の性別認定制度におけるトランスジェンダーへの人権侵害 | HRW

www.hrw.org

 

※5 [議論]身近で感じる?「学歴分断」:日経ビジネス電子版

business.nikkei.com

 

※6 「たびたび発生している」と言うからには、例えばTwitter上で1か月あたりに発生した『事件』件数の推移などを示す必要があるだろう。しかし、僕が想定しているのは、自分と相手が持つイデオロギーの違いに無自覚なことから生じるいわゆる炎上や、リプライ・引用リツイートを使っての論争だ。炎上にはイデオロギーと無関係であると思われるものも多い。また、『事件』を政治に関連する話題だけに限定したくはない。この部分に踏み込んでいる文献を探したり、あるいは自分で統計を取ったりというレベルには至れなかったことは素直にお詫びしたい。

 

※7 SNS登録率6割 10年で3倍に 民間調査:日本経済新聞

www.nikkei.com

 

※8 【関西の議論】大阪のエスカレーター「右立ち」は世界標準だった!? 半世紀前から、東京の「左立ち」は20年遅れ - 産経WEST

www.sankei.com

 

※9 「テラスハウス」出演中の女子プロレスラー死去 22歳:朝日新聞デジタル

www.asahi.com

 

※10 SNS発信者特定容易に 高市総務相、誹謗中傷「許しがたい」

www.sankeibiz.jp

 

※11 「表は仲良し、裏アカでは悪口…」ネットいじめが過去最多に。インスタきっかけに自殺者も

https://www.buzzfeed.com/jp/kotahatachi/net-izime?utm_source=dynamic&utm_campaign=bfsharetwitter

 

※12 男性が、女性に対して上から目線で偉そうに説明したがることは「マンスプレイニング(mansplaining : 語源はman + explain)」と呼ばれる。

 

 ※13 (EYE モニターの目)今月のテーマ:企画「Dear Girls」について:朝日新聞デジタル

www.asahi.com

 

 ※14 朝デジスペシャル:朝日新聞デジタル

www.asahi.com

 

※15 「公平・公正」および「不偏不党」はNHKが標榜するスローガンだが、最近はその雲行きが極めて怪しくなっている。

中立的なメディアは存在しない――「放送法」を再考する | 荻上チキ・日本の大問題 | ダイヤモンド・オンライン

diamond.jp

左遷! さらば、NHKニュースウオッチ9』大越キャスター エースはなぜ飛ばされたのか(その1)gendai.ismedia.jp

NHK国谷裕子を降板に追い込んだ“官邸の代弁者”が専務理事に復帰! 安倍政権批判の完全封殺へ (2019年4月11日) - エキサイトニュース

www.excite.co.jp

 

※16 アメリカの格言(You can know a man by the books he keeps in his library.)による。

 

※17 第45回スペシャル 宮崎 駿(2007年3月27日放送)| これまでの放送 | NHK プロフェッショナル 仕事の流儀

www.nhk.or.jp

 

※18 もちろん共産主義などの政治的な思想による活動ではない。在寮生のよりよい生活のために大学に要望を提出したり、大学からの提案を受理するかどうかの会議を取り仕切ったりというのが重要な任務だった。京都大学吉田寮のように、現在進行形で自治寮と大学当局が激しい対立を見せているケースもある。

 

ブルーインパルスの「感謝飛行」

 

きのうの正午過ぎ、東京都心の上空をブルーインパルスが飛んだ。航空自衛隊Twitter(@JASDF_PAO)では「感謝飛行」と銘打って「医療従事者の方々をはじめ、多くの皆様へ敬意と感謝をお届けした」とある。

 

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これから少しだけ余計なことを言う。ブルーインパルスが飛ぶ予定だと知ったとき、僕は真っ先に「えっそんなことするの...?」という違和感を憶えてしまった。T-4(ブルーインパルスの機体)のフォルムは大好きだし、自衛隊の日頃の活動にも純粋にカッコいいなーと思っているにもかかわらず。

 

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この輪郭のない大きな疑問符をいろいろといじり回してみると、およそ2つに分けることができた。1つ目は、本当に多くの人がそれを受け入れてくれるのかという懸念。アメリカでは4月28日に海軍と空軍の両チームがアクロバット飛行を披露したが、米軍と自衛隊は似て非なるものだと思っている。

 

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特に、これは100%主観なのだけれど、アメリカ国民における米軍の存在には確固たるものがあって、そのふるまいに絶対的な信頼が置かれているのに対して、日本では自衛隊を政治とセットでしか考えられない人が多く、現政権が不満だから今回の飛行をよく思わないという人も多くなるのでは?と思った。

 

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その意味で、この「感謝飛行」を発案したのが誰だったのかはすごく気になる。よく「会議は何を発言するかではなく誰が発言するかで決まる」と言われるけれど、誰が言ったのかによってその意味が180度変わってしまうような場面も実際には多くあるはずだ。

 

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もう1つは明らかで、「感謝」とか「感動」みたいなものを全面に押し出すことを僕が苦手としているからだ。べつに他者への感謝の心がないという訳ではなく、自分がそんな差し出がましいことをしていいのかという自信のなさが根底にある。誰かに何かをプレゼントするのも同じ原理で長らく苦手だった。

 

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小中学生の頃、高専ロボコンや大学ロボコン鳥人間コンテストに熱中していて、いずれは画面の向こうに行けると思っていた。毎年見ているうちに、番組が「感動」に重点を置くようになっていった。「このフライトが終わったらこちらのマネージャーに告白するそうです!」みたいなのもあったような。

 

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「感動」を求める気持ちも分からんではないから、勝手にやっててくれる分にはまったく構わない。でも、番組の放送時間は決まっているから、人が映る時間が延びれば機械が映る時間が減る。なによりも機械や技術を観たい僕にとってあの風潮はもどかしかった。

 

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きのうの昼に時間を戻す。いや、きのうの夕方まで時間を戻そう。飛行機やヘリコプターの音が聞こえたとき、その機影を探してずっと見上げているのは僕だけだったということは多いので、Twitter上での盛り上がりを目にしたときの率直な感想は「みんな意外と飛行機好きじゃん!」だった。

 

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もちろん飛行に対して否定的な意見もあるけれど、それは政治と結び付けてはじめて成り立つものであって、多くの人は見上げた空や投稿された写真の圧倒的な美しさに興奮を憶えたのだと思う。

 

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当然「今日は天気がいいんでブルーインパルス飛ばします」という訳にはいかないから、「感謝飛行」という意味付けによってこのタイミングでこの飛行が実現したことは僕の厄介な航空オタク精神に照らしても素直に嬉しい出来事だったと気付いた。感謝を押し出したからといってスモークが薄くはならない。

 

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そして、これはうまく言葉にならないのだけれど、空を見上げるっていう行為はやっぱりすごくいいなぁと思った。何もなくても、たまには空を見上げたほうがいいのかも知れない。

 

踊らされて生きていきたい

■ カッポレダンス

 いまからちょうど100年前の1920年、「日本及日本人」という雑誌の中で「百年後の日本」と題する特集が組まれた。その名の通り、100年後の日本はどのようになっているかを小説家や大学教授、宗教関係者などの有識者およそ370人が予想したものだ。

 その内容はというと、

 ・東京では電線や上下水道が地下に埋設され、鉄道も地下を通る

 ・郵便や電報に替わって電波を使って通信をする

 ・女性の交通巡査や代議士が登場する

というようなものから、

 ・折り畳み式の飛行自動車ができる

 ・火星との行き来ができるようになり、富士山は火星に向かう飛行機の停留場となる

 ・世界が統一されて中央政府ができる

といったものまで多種多様なのだが、僕がいちばん心惹かれた予想はこれだった。

カッポレダンス。カッポレダンス。あまりにも語感がいい。

 

 さて、2020年の日本はどうなった?

 

 

■ ”うちで踊ろう”の件

 星野源さんが「うちで踊ろう」の動画をインスタグラムに投稿したのは4月3日のことだったので、そろそろ1か月が経とうとしている。最近はツイッターでコラボ動画を見かけることもほとんどない。そして、いわゆる「安倍首相と星野源さんのコラボ動画」が投稿されたのは4月12日の午前だった。カーテンを開けても薄暗いほどにどんよりとしたあの日を僕はしばらく忘れられそうにないので、この1章はどうしてもあの件について書かせて欲しい。

 

 僕は普段からツイッターに流れてくる音楽を聴くのが好きだ。それは、プロのアーティストの新曲のMVの一部だったり、世界のどこかの合唱団の演奏音源だったり、友人によるギターの弾き語りだったり、趣味としてシンセサイザーリズムマシンを蒐集している人の「こんな音が出ました」という報告だったりする。そんな僕にとって、星野源さんが編み出した素直なポップさに溢れるひとつのメロディが、それを聴いた人の音楽観に基づいて三者三様に解釈され、もとの姿とは違う形でまた表現されるというのがとても面白かった。具体的を挙げれば、合唱人はすぐさま4パートに書き分けるし、トラックメイカーはDAWに取り込むし、何らかの楽器のプレイヤーは自分のメロディを加えてスマホで動画に撮る。無数のコラボ動画は、そこに無数の音楽観があって、そのすべてがそこに存在する権利を有しているということを示していたと思う。

 

 その盛り上がりがネットを介して広く浸透し、僕も自分のアレンジを作ってみて、もし聴くに堪えうる形に仕上げることができたらしれっとネットに流してみようか、などと考えていたタイミングで、例のツイートが目に入ってしまった。

 「生理的に無理」というのは、あの感覚のことを指すのかも知れない。まずあのツイートを見た時点で、とてつもなく禍々しいものを見せられた気分になった。これは確実にヤバいヤツだと分かったが、これは義務だと思って最後までその動画を凝視した。それまでにいろいろなコラボ動画を見てきた訳だが、断トツで長い1分間だった。

 時間が経つにつれて、その動画を受けての各々の反応が見られるようになってきた。すると、「怒りが湧いてきた」とか「安倍総理いつも私たち国民のために一生懸命働いてくださってありがとうございます」とか「これは明確な音楽の政治利用であって歴史的にも云々」とか「表現の不自由展では表現の自由を訴えていた人たちがこんどは他人の表現に干渉しようとしてて草」とか「別に構わないけどセンスないね」といった具合であり、もう完全に訳が分からなくなってしまった。どのぐらい訳が分からなくなったかといえば、僕のTwitterはてなブログSoundCloudFacebookをすべてアカウントごと消してしまおうかと思ったくらいだ。この結論に至るまでの流れを最短で述べるなら、

まさか安倍さんやその周囲が物議を醸すことを目的として動画を製作した筈がない(コラムニストの小田嶋隆さんはその可能性も否定してはいないが)

 ⇓

純粋にウケると予想してやったことがこれだけの賛否両論を巻き起こしている

 ⇓

自分が面白いと思ったことやウケると予想したことを表現することによって誰かを怒り狂わせたり絶望的な気持ちに陥れたりする可能性が僕にもある

 ⇓

それには流石に耐えられないからすべての表現を辞めよう

ということになる。この問題を回避する方法は未だ見つかっていないけれど、僕は表現することを再開してしまっている。おかしいね。

 

 話を戻して、改めて考えてみて確実に言えるのは、無数のコラボ動画と安倍さんの動画では何かが決定的に違うということだ。そうでなければ、安倍さんの動画のときにだけ、その後数日間持続するほどの暗鬱とした気持ちになる筈がないからだ。ただし、この出来事は始めから終わりまで飽くまでも僕の感情の動きの話でしかないため、その何かを論理的に導き出すことができるかは分からない。実際、例の動画に対して何の感情を抱くこともなく、むしろ嫌悪感を示す言論に対して辟易していた人も少なくなかったようであり、この話はどこまで突き詰めても主観的にしか語ることができない可能性は高い。

 表現に対する受け止め方がこれだけ多様であるということは、逆に言えば、どのような表現でも誰かには絶賛され、同時に誰かには酷評される、ということなのかも知れない。何かを表現しなければ社会を生きていくことはできないのだから、それは救いであり、同時に絶望でもある。

 

 

■ ガチで踊ろう

 ところで、みなさんは普段どのくらい踊っているんでしょうか?好きなダンスミュージックやダンス動画はどのくらいあるんでしょうか?なかなか興味があります。

 先手は僕からということで、振りの難易度順に3つの動画を紹介しておきますね。

 

難易度:☆


tofubeats - 陰謀論 (CONSPIRACY THEORY)

 

難易度:☆☆


#10 Perfume【TOKYO GIRL】"ダンスレッスン" LIVE MC【練習用】

 

難易度:☆☆

時間がない

時間がない

  • KIRINJI
  • J-Pop
  • ¥407

 

 

■ "踊る"って何だ?

 つい最近まで「ダンスする」と「踊る」の違いが分かっていなかった。僕はダンスは全然できないので、バキバキにダンスしている人を見ると本当にすごいと思う。ディズニーのショーを見て心を掴まれるあの感覚は、オリンピックを観ていて画面に釘付けになるときの感覚ともしかしたら同じかも知れない。人間の身体(からだ)ってそんなこともできるのかという驚き。そのレベルまで行かなくても、「うちで踊ろう」動画には音楽はオリジナルのままでダンスコラボをしているものも勿論多くあったし、趣味でダンスができちゃうというのは素敵だなと思う。

 音楽に合わせて身体を動かすことを「踊る」と呼ぶのであれば、僕は踊ることが割と好きだと思う。決められた振り付けに合わせる俊敏さもないし、人に見られるのもいまだにあまり慣れないけれど、音楽と一体になるような気分を味わうのは昔からすごく楽しかったような気がする。

 

 そして、最近では、「踊る」ことは実はものすごくいいことなのではないかと考え始めている。よく言われていることだけれども、現代人の生き方は「意識」や「情報」に重点を置くあまり身体を軽視してしまっているのだと思う。昨年あたりからの筋トレブームもまさにそれの反動かも知れない。「踊らされる」という言葉があるように、しばらく踊り続けていると、もはや自分の意思ではなくリズムに衝き動かされて身体が動いてしまう瞬間というのがある。こうして意識を片隅に追いやって身体に主役になってもらう時間というのが、少なくとも最近の僕にとっては不可欠にまでなっている。

 

 踊らされて生きていきたい。

 

 

(参考文献)

[1] 2020年の日本、100年前にここまで見通した男 : 深読み : 読売新聞オンライン

  https://www.yomiuri.co.jp/fukayomi/20180105-OYT8T50023/

[2] 進士 素丸(@shinjisumaru) on Twitter

  https://twitter.com/shinjisumaru/status/1214450500591992833?s=20

[3] iamgenhoshino(星野源) on Instagram

  https://www.instagram.com/p/B-fFPKrBc-X/?utm_source=ig_web_copy_link

[4] 「空気の読めなさ」の原因は:日経ビジネス電子版

[5] バカの壁養老孟司):新潮新書