ベティの雑記帳

つぶやき以上ブログ未満

《書くことについて》§2 書くことは何に似ている?

この1年間でこのブログに書いたものを読み返した。これは、自分が撮った写真とか、自分でアレンジした曲とか、割といろいろなことに対して言えることなのだけれど、時間が経ってから読み返したときでも「これ結構おもしろいじゃん」とか「ここの表現うまいわぁ」などと感じてしまう部分がある。自分がやっていることのあまりの気持ち悪さに辟易しつつも、僕が好きなものを僕が好きな感じに仕上げている訳だから、やっぱり好きだと思うのは当然でしょ?と開き直る気持ちのほうがほんのわずかだけ強い。

 

僕が好きなものを僕が好きな感じに仕上げるために、自分は普段どんなことをやっているのだろうか。文章表現について考えたとき、他の人と較べると僕はただひたすら『時間をかけている』のではないかと思っている。

 

一般的な日本人が文字を読むスピードは、1分間に400字から600字程度らしい。夏休み期間に毎日投稿していた日記は800字を上限と決めていて、書き過ぎては削る羽目になっていた。だから、ここへ遊びに来てくれるみなさんは長くても2分くらいで読み切ることができていた筈だ。

 

では、それを書くのにかかった時間はというと、短くても2時間、大抵は3時間台だったと記憶している。3時間なら180分だから、ざっくり言って読むのにかかる時間の100倍の時間が費やされて僕の文章は書かれている、ということになる。

 

先日、その夏休みの日記のひとつが、70名弱のはてなブロガーさんによる日記たちと一緒に活字になって製本され、「はてなブログの日記本 2022」としてイベントで配布された。このSNSの時代においてもブログを純粋な日記として楽しんでいる人はたくさんいて、その中には毎日投稿を続けている人もいるというのは当たり前のことではある。とはいえ、いまの自分の生活スタイルと執筆スタイルでは平日に日記を書いて投稿することを続けるなんて到底不可能なので、すごいな、それにちょっと羨ましいな、という気持ちになってくる。

 

僕にとって書くことはやっぱり楽しいし、話すことなんかに較べればずっと得意でもあると思っている。でも、僕の半分の時間で同じ文字数を書くことができる人と較べたときに、僕は書くことが得意だ、書くことに向いていると言えるだろうか。仮に僕の書いたもののほうが2倍おもしろいとしてもそれでようやくイーブンだし、そもそもそんなにおもしろいものを書けた例(ためし)はない。いま僕が会社で仕事をしているときに感じているつらさというのも、まさしくそこにある。

 

どうしてそんなに時間がかかるのか。それは、書くことと考えることを同時にやっているからに他ならない。書き出した文章がもつ流れを途切れさせたり溢れさせたりすることなく自分が見定めた海まで導くためには、書き始める前までに考えていたことだけでは全然足りない。刻々と変化する流れに対して次の一文をどう繋げるかというところに書くことのおもしろさがあると思うし、読み返してもよく書けていると思えるような一文はいつでも書いている最中に浮かんでくる。

 

大げさに言ってしまえば、書き始める前の僕と書いている最中の僕はちょっとだけ違う人間だ。だから、書き始める前の僕と書き終えたあとの僕はけっこう違う人間なのかも知れない。

 

それはちょうど「旅」に似ている。いまの僕にはまだ予想もつかないようなエキサイティングな旅が、来年もまたきっとある。

《書くことについて》§I ベ的表現論

ブログを続けていると、書けることと書きたいことはちょっと違っていたり、書きたいけど書くべきじゃないことに頭を悩ませたりすることがある。僕がいまから書こうとしているのは、別に書きたくもないけどこれ以上書かずにやり過ごす訳にはいかなくなってきたこと、とでも言おうか。

 

§I ベ的表現論

 

いまの時代、情報の消費者にとってはスマホさえあれば充分だと言われている。確かにその通りだと思う。僕の場合も、平日に家でノートパソコンを開くことはまずない。週末、ある程度の気力があるときだけPCを開いて、新聞のデジタル版やメールマガジン、フォローしているブログの新着記事などの溜まりに溜まったものを少しずつ消化する。部屋の一角を占めている目に見える”積ん読”に加えて、こうした”デジタル積ん読”がうず高いので、僕の負債がチャラになったためしはない。

 

その一方で、何かを読むためではなく、何かを書くためにパソコンを開くこともある。書かれたものはほぼ確実にブログに投稿されるから、その頻度は決して高くないことが分かってもらえるだろう。

 

何も書かずに済むのならそれに越したことはない、と僕は常々思っている。つまり、プロでもないのに文筆家を気取って自分の身に起こったことや考えたことなどをわざわざ書き綴って公開したり、才能もなければ勉強もしていないくせに詩だの短歌だのを拵えて見せびらかしたりするような振る舞いは忌み嫌われて当然なので、そういったことはしないほうがいいに決まっている、と思っている。

 

しかしながら、僕自身を含めて、こうした振る舞いをしてしまう人間が後を絶たないのは、「自分を表現したい」という欲求が極めて強い自我を持っているからだ。ここでいう「表現」は、可能な限り広くとらえてほしい。文芸的なものや音楽的なものはもちろんのこと、スポーツやゲームも一種の表現かも知れない。対面でもオンラインでもアバター同士でも、会話はすべて最もプリミティヴな表現だと考えるべきだし、暴走族の排気音だって表現の仲間に加えてやる必要があるだろう。ファッションのような外面的なものだけではなく、趣味のような内面的なものも、それを外に向かって表明した瞬間かられっきとした自己表現だと言えるのではないか。

 

表現という行為が成り立つためには、それを受け取る相手が必要だ。むしろ、複数の人間が同じ空間で何かをしているとき、そこには必ず表現のやり取りがある、と言ったほうがいいかも知れない。では、そこに人間が1人しかいないとき、その人が何かを表現する手立てはないのか?

 

文芸的表現はひとりでもできる表現の代表例である。書き手と読み手が同じ場所にいる必要がないどころか、同じ時代に生きている必要もないから、書き手が亡くなっても作品が遺るということが起こる。このように、表現の行為それ自体と、それによる結果すなわち出来上がった作品が完全に切り離されるようなタイプの表現を、私たちは「創作」と呼んでいる。どんなに多くの人が携わる創作であっても、その核になる部分はいつでも「ひとり」で生み出されているのではないか、というのがいまの僕が持っている仮説である。

 

ちょうど去年のいま頃、こころの問題はこころだけの問題ではないという当たり前のことを身をもって感じる出来事があった。それ以来、自分のこころと身体を出来る限り守っていくためにはどうすればいいのか、というのが僕にとって大きなテーマとなっている。いまうっすらと思うのは、「自分を表現したい」という欲求を無理に抑え込もうとしないことはとても大事なことなのではないか、ということだ。

 

だから、こんな文章表現をしてみたいというアイデアが浮かんだら、まずはパソコンを開いて、自分が納得できるまで書いたり消したり行ったり来たりを続けるしかない。出版されてたくさんの本棚に残るような文章には程遠いけれども、インターネットの片隅でこんな風にひっそりと公開されるものでも、自分で消すか誰かに消されるかしない限りはずっと残り続ける...のだろうか。

 

『天王寺ハイエイタス』伊与原 新

6つの短編が収められた『月まで三キロ』(新潮社)の4つ目がこの作品だ。物語の舞台は浜松、東京、北海道ときて、筆者の出身地である大阪に移る。冒頭から生き生きとした会話が繰り広げられて、関東出身の自分でさえ、目で追った文字が変幻自在なアクセントとともに頭の中で聞こえてくるような感覚になる。

 

30歳を目前にして独身。そして次男。主人公は「どうしようもなさ」を抱えているように見える。周囲や自分に誇れるような何かを成し遂げることなくこの歳まで生きてきてしまったという後悔、自分の将来の道筋はもうほとんどはっきりしているのにそれを素直には受け容れたくないという抵抗、兄と比べられるたびに少し嫌な気持ちになりながらも自分自身でも兄と自分を比べてしまうことへの嫌気、そういったものが複雑にからまった「どうしようもなさ」である。

 

そこに「ハイエイタス」にまつわるささやかなドラマが起こる。これもまた地球惑星科学の用語だ。地球惑星科学は時間的にも空間的にも規模の大きな現象を扱っている。もしかすると、その概念を持ち込むことによって主人公の抱えているものを相対化して、あたかもちっぽけなものに思わせてしまうことはあまり難しくないのかも知れない。

 

しかしながら、伊与原ワールドに何万年というスケールの時間が持ち込まれるとき、それは登場人物たちの人生にぴたりと重なる。時間軸の尺度が大きく異なる出来事どうしが見事にコンボリューションしてしまう。そして、登場したすべての人物の生き様がなんだか愛おしいものに思えてくる。

 

小説は問いを見出すためのものであって、答えを出すためのものではないと思っている。この物語でも主人公に何らかの答えが与えられた訳ではないが、その「どうしようもなさ」は確実に解きほぐされているのが分かる。それを読者として見守っていた自分のなかの「どうしようもなさ」もまた、少しだけ解きほぐされていくような気がした。

 

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#読書感想文の会

yunovation.hatenablog.com

 

深い宇宙-臼田のパラボラアンテナ

8月19日 晴れ

 

長野県佐久市にあるJAXAの「臼田宇宙空間観測所」へ行ってきた。きのうの野辺山宇宙電波観測所とは違って、ここには巨大なパラボラアンテナがひとつ建っているだけだ。

 

直径64mパラボラアンテナ

 

このアンテナは、小惑星探査機「はやぶさ」をはじめとした深宇宙探査機とのデータのやり取りをするために使われてきたものだ。深宇宙(deep space)というのは「地球からの距離が200万キロメートル以上である宇宙」のことを指すと、電波法施行規則32条に書かれている。

 

宇宙とひと括りに言っても、近い宇宙から遠い宇宙までさまざまである。例えば、国際宇宙ステーションISS)が地球を周回しているのは地上から400kmの高さだ。「宇宙から見た地球」のイメージとして、このような景色を思い浮かべる人も多いと思う。

 

地上から400km ©JAXAhttps://humans-in-space.jaxa.jp/kibo/view/

 

近年は大学で人工衛星を製作して運用することも珍しくなくなってきたが、そういう人工衛星はこのくらいの高度にある。そこからの電波はテレビ用として一般家庭の屋根に立っているようなアンテナ(八木アンテナ)で受信することができる。

 

では、この臼田のパラボラアンテナが使われるような「深宇宙から見た地球」は一体どうなるのか。2015年11月にはやぶさ2によって撮影された画像がこれだ。画面の右側に地球、左側には月が見える。このとき地球からはやぶさ2までの距離が約300万kmだから、これがようやく深宇宙の入口だ。

 

地球から300万km ©JAXAhttps://www.hayabusa2.jaxa.jp/galleries/ryugu/

 

暗闇に浮かぶ地球を眺めているうちに、ふと心細いような気持ちになってきて、自分は宇宙のそういうところが好きなのかも知れないなと思う。

 

星の数ほど - 野辺山の夜空

8月18日 雨⇨晴⇨?

 

涼しい場所で星を見たいと思い立って、たどり着いたのは長野県の野辺山だった。電波天文学の聖地「国立天文台 野辺山宇宙電波観測所」やJRのすべての駅のなかで最も標高が高い「JR小海線 野辺山駅」があることがどれくらい広く知られているかは分からないが、僕にとっては、小さな頃からずっとずっと来たかった場所だ。

 

昼間のうちにこれらの見学を終えたあと、いったん山梨方面に下って夕食を食べながら外が暗くなるのを待った。20時を過ぎて野辺山に戻ってきたとき、昼間はおおむね晴れて太陽光を容赦なく浴びせていた空が、完全に曇っていた。それでもしばらく空を眺めていると、ほんの一部だけ、そしてほんの数分だけ、流れる雲の間からその先を見通せることが何度かあった。

 

「星の数ほど」という言葉がある。その意味とは裏腹に、僕たちがふだん見上げる夜空の星は簡単に数え上げることができてしまう。しかし、そのとき見えた星空は、明るい星と明るい星の間に暗い星がいくつもあって、数えることはほんとうに不可能だと思った。その暗い星と暗い星の間にもきっと見えない星がたくさんあって、その構造がどこまでも続いているのだということも想像せずにはいられないような星空だった。

 

特に、空を横切る薄明るい帯が天の川だと分かったときには、言い表せない高揚があった。太陽系という街はずれから銀河系中心部の街灯やネオンサインを眺める-それが北半球から見た夏の天の川だ。

 

その一方で、ずっと空を眺めているうちに、これらの星はすべて10mか20mくらい先に張り付いているだけなのではないかと錯覚することもあった。そう、プラネタリウムのドームの中にいる感覚だ。本物の星空を前にして「プラネタリウムみたい」というのはいささか嫌な感性ではあるが、これまでドームの中でしか見なかったような星空を目の当たりにしているという裏返しの実感がそこにはあった。

 

ひきこもごものひきこもり

8月17日 さっきまで雨

 

きょうは一歩も外に出ていない。もちろん誰とも会っていない。何らかの通信手段による音声のやり取りもない。独り言はいくつか言った気がする。

 

こういう日は、自分がリセットされている感覚があって、ものすごく心地がいい。こういう日がいつまでも続けばいいのだけれど、それでは収入が絶たれて、家賃が払えなくなって、この部屋を追い出されてしまう。自分の城でひとり気ままに過ごす幸せを維持するために、365日のうち250日は城の外に出て、人並みに働かなければいけない。なんてこった。

 

じゃあ、もし仮に、外へ出ることなく定収を得る手立てがあれば(文章で稼いでみたいなぁ...無理だけど)、その暮らしはパーフェクトと言えるだろうか。

 

それは「ひきこもり」と「家出」を同時にやっているようなものだと思う。普通のひきこもりは実家にひきこもる。家賃の心配がないから、何年もひきこもり続けることができる。その一方で、自分の部屋を一歩出たところに「家族」というあまりに強力な人間関係が横たわっているために、そこから出られなくなってしまうという側面があるのも事実だろう。ひきこもりを家庭問題としてその家族に押し付けても、無理やり引き出して矯正施設にぶっ込んでも、ろくなことはない。代わりに、あらゆる人間関係の重力を感じなくてすむような環境にしばし身を置くことで、他者と向き合わなければいけないというプレッシャーから解放され、自分がこれからどのように生きていけばいいのかを見出すことができないだろうか。その様子は「家出」に近い。

 

実家を遠く離れて独身で会社勤めをしているいまの僕を、ひきこもりとか家出というふうに見なすのは流石に無理がある。けれども、この暮らしをいつまでも続けることが正しいとは思えない。それはちょうど、ひきこもりや家出はいつか終わりにしないといけないことと似ている気がしてならない。

Gのレコンギスタ完結

8月16日 晴れ曇り大雨ぜんぶ

 

劇場版「Gのレコンギスタ」「Ⅳ 激闘に叫ぶ愛」と「Ⅴ 死線を超えて」を同時に上映している映画館を探して、続けて観てきた。これでGレコは完結となる。

 

最初に言っておかないといけないことがある。正直なところ、僕はこの映画の内容をきちんと理解できたとは到底言えない。だから、評論らしいことは書けないし、まともな感想すら言える気がしない。

 

なぜ理解できなかったのか。1つ目に考えられるのは、僕のガンダムシリーズに対する知識が圧倒的に不足していることだ。初めて触れたのが昨年の「閃光のハサウェイ」だった。そのときについてきた視聴コードを使ってGレコのⅠとⅡを観てみたら続きが気になってしまい、昨夏のⅢ、そして今夏のⅣとⅤを観たという次第である。ガンダムワールドの語彙をもっと知っていれば、充分理解できる内容だったのかも知れない。

 

2つ目に考えられるのが、こんなことを言うと怒られるのかも知れないが、「こんなもの誰が観たって難しい」という可能性だ。僕がこれまでに観てきた映画たちを思い返しても、これほどストーリー展開が複雑で目まぐるしいものはないように思う。

 

そのストーリーの複雑さは、「闘い」に必然性を持たせるためにあるのだろう。ガンダムの見せ場である戦闘シーンにリアリティを与えるのは、戦闘シーンそのもののリアルさではない。というか、機体の動き方も、爆発の仕方も、物理的なリアルさとはかけ離れている。その替わり、なぜモビルスーツに乗って戦わないといけないのか、どうして闘いを回避することはできなかったのかを強い説得力で示さなければ、そのリアリティが醸せないのだろうと思った。

 

富野由悠季氏は何を伝えようとしているのか。そもそもどんなことを考えているのか。不思議で仕方がないので少しずつ読み解いていきたい。

 

 


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