ベティの雑記帳

つぶやき以上ブログ未満

勝手に短歌論

確かに、自分がつくった詩を自分で解説することほどダサいことはないかも知れない。自分の作品に解説するほどの値打ちがあると思っている時点で相当にダサいというのが1つ、解説しなければ伝わらないようなものを完成品として世に出していること自体がダサいというのが2つ、そして、詩のなかで伝えきれなかったことをなおも他の手段で伝えようとする諦めの悪さがダサいというのが3つだ。

 

そうは言っても、『短歌』の創作は僕がここ数年にわたって密かにハマっている大事な趣味のひとつで、短歌を「読むこと」ではなく『詠むこと』について語りたいという気持ちをずっと前から燻(くすぶ)らせていた。マンガを読むことと描くことには天と地ほどの差があっても、短歌を読むことと詠むことには2階と1階くらいの差しかないだろう。けれども今回は、その2階からの景色についてどうしても書かせてほしい。

 

題材はこれだ。

 

 

 

 

Ⅰ この街の明かりのどれかにきみがいて夜風に乗って飛んでいけるよ

 

『#短詩の風』の趣旨をそのまま短歌にしたようなものを1つは入れておきたいと考えてつくった。主語になっているのは学生くらいの男で、「きみ」というのは付き合い始めたばかりの彼女。彼氏のほうがいいと思う人は勝手に読み替えてください。デートを終えて、彼女の家の最寄り駅で解散したあと、男は自分の家に帰るために2駅分ほど電車に乗る。ホームは高架になっていて、彼女の住む街が見渡せる。電車が来るまでの間、2月22日22時22分の風に吹かれる男が目にしたものと感じたことを詠んだ歌-という設定だ。

 

この街のどこに住んでいるのかまではまだ知らないけれどいずれは...という粘度高めの下心が、「(早春の)夜風」というモチーフのおかげで、あたかも爽やかな恋心であるかのように仕上がっている。結句の「よ」は字数を整えるためという理由ももちろんあるけれど、この歌全体が彼女への呼びかけであることを示す役割がある。

 

「この街」はどこなのかという問題がある。いちばん初めの着想の時点では、たしかにこの街=浜松だったけれども、短歌としての完成度を高めるべくいろいろと考えているうちに、「この街」というのはその短歌世界における架空の街になるし、その主人公は僕自身とは別の架空の誰かになる。同じように「きみ」というのも現実の誰かを意味することは絶対にない。

 

絶対とまで言い切るのは、短歌というのは『詩』のひとつであり、『詩』と対極にあるもののひとつがいわゆる「内輪ネタ」だと思っているからだ。作者である僕についての情報を踏まえた上でないと理解できないようなものは、仮に僕のことをよく知ってくれている人たちからのウケが良かったとしても、短歌として発表するべきものではないと個人的には考えている。

 

 

Ⅱ この街の明かりのどれかにきみがいて目を凝らすほど滲んでしまう

 

この下の句が浮かんできたときがいちばん気持ちよかったのは言うまでもない。今回の4首には主語がないというのもひとつの大きなポイントなのだけれど、特にこの歌は主語にあたる人物の性別も年齢も問わないような普遍性に少しだけ近付くことができたのではないか、と自分では評価している。

 

「私たちは『美』という性質についてあたかも客観的事実のように語る」ということを本の中で哲学者が述べていた。僕は、特定の誰かに対する好意もそれと同じなのではないかと思っている。少なくとも日本語を使って物事を考えている私たちにとって、「好き」というのは主語を必要としない「好き」であって、あたかも他の人にはなくてその人だけにはある『言葉を超えた何らかの性質』によってその人だけが特別な存在に見える、ということだと思う。好意を動詞と捉える英語の「love」やその訳語である「愛する」が浮いた言葉に聞こえることがあるのは、その辺りに理由があるのではないか。

 

要するに、好意というものは、その場面場面に応じて具体的な行動に変換することが必要なのではないかという考えに基づいて、主人公の好意を「目を凝らす」という行動によって動詞化したのがこの短歌だ。「きみ」への片思いを秘めたままこの春で「この街」を離れなければいけない、というようなメロドラマティックな情景が浮かんでくるのではないかと思う。

 

ちょっとうれしかったことがある。2月の上旬にこの歌が完成したあと、朝ドラ『舞いあがれ!』でヒロイン舞ちゃんとその幼馴染の貴司くんが互いの思いを打ち明けて結ばれるというこの半年で最大級の山場で、貴司くんが次の歌を詠んだ。

 

 

一度ツイートした短歌を読み返して全然ダメだ...と感じることも多いので、完成度が低い状態のまま短歌を世に出してしまうことは可能な限り避けたい。それでも、自分で抱えているうちに同じアイデアを持った他の人が先に短歌を発表してしまうこともある。僕が今さら何を言っても秋月さんに「これ、本歌取りですね~」と言われてしまうだろう。本歌取りというのは「平たく言えばオマージュです」。

 

ともかく僕は、好意の動詞化として「目を凝らす」という言葉を選んだ貴司くん、つまりは脚本家・歌人の桑原亮子さんとのシンクロがうれしかった。満を持して僕の舞ちゃんが現れるのを待ちたいと思います(?)

 

 

Ⅲ この街の明かりのどれかにきみがいてきょうも冷たいあなたの右手

 

発想のもとになったのは『意味が分かると怖い話』と呼ばれているようなホラー要素のあるショートショートだ。解説するまでもなく、いま夜景の中にいる「きみ」といま自分と手を繋いでいる「あなた」は別人であり、それぞれが自分とどういう関係性にある人物なのかを考えるだけでもたくさんの見方が可能だと思う。

 

思い付いてからしばらくは、「あなた」が自分の手を取ってきたのか、それとも自分から「あなた」の手を取ったのかを明示しようと思っていろいろなパターンを探ったのだけれど、残りの14文字でしっくりくるようにまとめるのはかなり難しかった。ただ「あなた」と自分が手を繋いでいる状態だけを描くことに決めたことで、結果的にはより多くの見方が残って、この歌のつかみどころのなさを引きたてられたように思う。

 

あとは三句の「いて」と結句の「右手」で韻を踏んでいるつもりだ。意味的にどっちもどっちだなと思ったときには音声的におもしろいほうを選ぶようにしている。

 

 

Ⅳ この街の明かりのどれかにきみがいていずれはひとつの光に消える

 

この短歌は普通だったらボツにするところなのだけれど、「明かり」と「光」の対比がどうしてもおもしろくて残すことにした。このふたつの言葉は1音目の「a」と「hi」が違うだけで、イントネーションすら同じである。それに何らかの発光するものを指している点も一緒だ。

 

違いは、温度感や規模感に表れてくるのではないだろうか。「つめたい光」はあるけれど「つめたい明かり」はないし、「灼熱の光」はあるのに「灼熱の明かり」はない。「あたたかな明かり」というのはしっくりくる。この歌で描かれている「明かり」もそういうあたたかさがある。そんなあたたかくて小さな「明かり」が無数にある景色というのは、たとえ見知らぬ人たちが暮らす「街」だったとしても、心の温まるものだと思う。

 

その対比として、ひとつの強烈な「光」を置くことにした。「いずれ」というのは期限を定めないので、仕事で使うととても便利な言葉だが、このタイムスパンがどれくらいかによって「光」の正体が変わってくる。

 

究極的なものからいくと、太陽の寿命はおよそ50億年と言われている。それまでに膨張した太陽は地球を飲み込むので、どんな「明かり」も太陽という「ひとつの光」に消えてしまう。もっとも、太陽系外へ脱出した地球の生命がその地で生き続けている可能性が全くないとは言い切れないが。

 

ただ、そんなことを心配するよりも前に、1億年に1回くらいは生物の大絶滅を引き起こす規模の巨大隕石の衝突があるはずだ。大質量どうしが衝突するときのエネルギーはとてつもなく大きな「ひとつの光」を生み出すに違いない。

 

そして、直近で考えられるやや小さめな「ひとつの光」は原子爆弾の類だと思う。こんなことを真顔で言うと1年前までは相当に怪しい人間だと思われた筈だ。しかし、ロシア軍がウクライナ原子力発電所を攻撃したというようなニュースに、実感を伴ってそういった危機を意識した人が僕以外にもいたに違いない。だから何だということをここで書くつもりはないが、いつも自分の気持ちばかりではなく、たまには時代の空気をなるべくそのまま保存しようと試みるのも、短歌をつくる上で必要なことのように思う。

 

 

最後まで読んでもらったお礼になるかどうかは分からないけれども、これまでの僕の短歌の中でいちばんキモくていちばんいい出来だと思っているものを紹介して終わりたい。