ベティの雑記帳

つぶやき以上ブログ未満

1600年前のご近所さん

8月13日 台風で大雨

 

市の図書館で開かれている古墳時代の土製品についての展示を見学してきた。人型と呼ぶにはやや拙いかわいらしさのあるこれらの土製品は、市内にある明ヶ島古墳群から発掘されたそうだ。その場所は僕の家からすぐ近くで、1600年の時間さえ飛び越えればご近所さんだ。

 

それにしても、地中から出てきた粘土の焼きものがどうして5世紀前半に作られたものだと分かるのだろうか?会場の入口に「文化財課」の名札を付けた方がいたので尋ねてみた。「基本的には、土製品より下に埋まっている土器などよりは新しく、その上に築かれた古墳よりは古いということから推定できます。日本の各地で同じ時期に同じ特徴をもった土器が作られていたことが分かっていますから。」

 

ということは、土器にも流行があったのだろうか?「流行というよりは、当時の大和政権の影響が全国に及んでいたことがその理由だというのが最近の考え方です。実際、その後の奈良時代には、『まつり』の開催の時期などが条文化されています。」

 

僕の脳内の古墳時代では、近畿周辺を除けば中央集権的な仕組みとは無縁で、人々は先祖から伝わる教えを大事に守って、農業や祭祀などをその地域ごとに発展させていたと思っていた。そんなに前から日本全国画一的なくらしが浸透しつつあったというのが新しい学説だなんて...

 

権力者が祭祀の実施を取り決める。その国の人々がそれに従う。「国葬」の2文字が頭に浮かぶ。強大な権力を振りかざし、その遠心力で自身の身体がバラバラになりそうになることに必死で抗っている-それが権力者の姿の本当のところなのかも知れないとふと思う。1600年前も、いま現在も。

 

 

 

引用集ふたたび

本書で扱う取材は、インタビューにかぎらない。誰かの話を聞くことはもちろん、本を読むことも、映画を観ることも、街を歩くことも、電車の車内アナウンスに耳を傾け中吊り広告を眺めることも、すべてが取材だ。

 

もちろん実際に原稿を書きはじめてからも、調べものは出てくるし、考えることは増えていく。少なくとも執筆中のぼくは、ずっと調べ、ずっと考えている。「書くこと」のなかには、調べることと考えること、みずからに問いかけることが溶け込んでいる。

(取材・執筆・推敲-書く人の教科書/古賀史健)

 

 

純粋な好奇心というよりはむしろ「これを知らないと世界の成り立ちや人間の本質がわからない」という切迫感に追い立てられて勉強してきたように思います。

内田樹神戸女学院大学名誉教授)

 

 

自由とは、「あれもこれも選べる」ということではなく、私の解釈では、「元からある方向性を妨げなく展開していける」ということだと思います。

- 田口茂(北海道大学 人間知×脳×AI研究教育センター長)

 

 

私たち人間が次々と技術革新を生み出せるのは、個々人が賢いわけでも、一握りの偉大な天才のおかげでもありません。何世代にもわたって技術が累積するからこそ高度な技術革新が生まれます。そのためには『大きな集団』が必要不可欠なのです。

- ジョセフ・ヘンリック(ハーバード大学 人類進化生物学教授)

 

 

Hold on,

if love is the answer,

you're home

(Epilogue / Daft Punk

 

 

(そんなつごうのいい話、あるわけないじゃないですか

あなたは所詮あなただ

栃木の高校生以上でも以下でもない

ただの夢だったんですよ)

君なら、どうする

(古道/井坂康志)

 

 

<おまけ-地球をだっこする話>

あくまで、ここのところ僕が触れた言葉のなかでも特に印象的だったものを並べただけなのだけれども、順番を入れ替えるうちに意味を持ち始めたのが興味深い。意味というのは、はじめからそこに存在しているものではなく、あとからやって来た誰かが勝手に見出すものだと改めて思う。

 

この前、「地球儀クッション」なるものを買った。名前の通り、世界の国々が4色に塗り分けられた球体のクッションで、両手で抱きかかえるのにちょうどいい。何だかとても気に入ったので、Twitterのアイコンもその写真に替えてしまった。丸いフレームに青い球体が収まっているようすを見たときに、自分は「地球」というモチーフが好きなのだろうと気が付いた。

 

空の高いところにそれはそれは大きな気球が浮かんでいて、「自分は何者なのか?」と大きな文字で書いてある。夜は自ら光を放って昼間よりも多くの人の心を苦しめる。この問いはとても難しく、人類史を見渡したところで、部分的な答えを出した人はいても完全な答えを出した人はまだひとりもいない。

 

だから、この問いに正面から立ち向かうことの替わりに、自分自身が納得できるような形に自分自身を何者かとして定義するということに執心することになる。そのプロセスとして代表的なのが「就活」や「婚活」だ。自分は医師であるとか、◯◯の社員であるとか、△△の妻であるとか、ステータスが高ければ高いほどいい。

 

そんな具合でみんなが目を離した隙に、誰かがこの問いを「自分『たち』は何者なのか?」にすり替えてしまった。

 

これまで通りに自分だけを何者かに定義することができても、新たな問いに対する答えの替わりにはならない。政治家がエネルギー源を見直すと喚いているいまも世界全体では増え続けている人口、ウイルスとヒトとのせめぎ合い、遠くの国で続いている戦争。本当はみんな、そろそろ本気で「自分たちは何者なのか?」について考えなければいけないことを薄々感じている。

 

どうすれば「自分たち」についてより深く知ることができるだろう。海外に出てみて初めて日本について分かることがあるように、地球の外に出てみれば何か新しい発見を得られるのだろうか。いっそのこと自分が外星人になってしまえば、人間のすべてが分かるのかも知れない。

 

僕は、自分は何者なのかを自分で決めなきゃいけなかったり、ましてや他の誰かにいつの間にか決められたりするくらいだったら、「自分たちは何者なのか?」という誰かからの問いかけに真正面から切り込んでいってもいいな、自分自身を定義するプロセスから逃げた代償としてそれ相応の孤独や苦痛が伴うのは間違いないけれども、それでも自由を希求し続けていたいな-そう思った矢先、カラスの鳴き声で目が覚めた。

 

小さな地球を抱きしめたままだった。

 

やっぱりピアノを弾けるようになりたい話

「ピアノを弾くこと」について文字でつらつらと書いたところで、どうにもならないことは分かっている。ピアノを弾けるようになりたいのであれば、それなりの努力をするべきだ。

 

1回30分の個人レッスンを月に4回、それを続けて9か月が経った。けれども、通しで弾けるようになった曲というのが、まだ1曲もない。8小節ぐらいに区切ったフレーズを、まず左手だけで弾けるようになり、次に右手だけで弾けるようになり、それからリズムを崩しながらもタイミングを合わせて両手で弾けるようになり、それを繰り返すことで徐々に慣れてくると、ようやく(指定のテンポに追いつけないにしても)楽譜に書かれた音符の連なりを音にすることができる。この一連の流れにものすごく時間がかかってしまう。

 

仕事に慣れてきたら楽器を習ってみようという考えはかなり前からあった。しかし、自分の記憶をどこまでも遡ってみると、かつては真逆の状態だったことを思い出す。幼稚園児だった頃、両親は僕にヴァイオリンを習わせたのだけれども、あまりに僕が嫌がるので、メソードの初歩の初歩でやめてしまったのだ。

 

いまとなっては勿体ない話である。何がそこまで嫌だったのか定かではないが、ともかく先生が恐くて仕方がなかった記憶がうっすらとある。とはいえ、そこら辺の幼稚園児を相手にして格別に厳しい指導をする筈もなく、先生が異常に恐かったというよりは僕が異常に恐がっていたというほうが真実に近いのだと思う。

 

小学校へ上がると、ピアノを弾ける女の子というのが少なからずいた。中学・高校になると、ピアノを弾ける男の子にも多く出会った。合唱の伴奏であったり、授業前の音楽室であったり、いま思い返しても、でっかいグランドピアノを堂々と弾く姿にはやはり憧れるものがあった。

 

そんな姿と同じくらい強く印象に残っているのが、ピアノコンクールなどで賞をもらった子が全校生徒の前で表彰される風景だ。この子たちは、僕が幼稚園児のときに恐くて逃げ出したようなレッスンをずっと続けているからいまこうして校長先生から賞状を手渡されているんだよな...と想像すると、あらゆる賞状と縁のない子供だった僕は、自分が何の取り柄もない空っぽな人間であるように思えてならなかった。

 

「趣味」と「特技」は履歴書だったら同じ欄になるけれども、これらは同じではない。「趣味」が「特技」になるためには、多かれ少なかれ「努力」が必要になるのではないかと僕は考えている。もっと言うと、努力には相性があって、努力との結びつきがいいものと結びつきがよくないものがあるように思える。

 

坊主頭で日に焼けた野球部の主将が自己紹介をするときには、「趣味は野球をすることです」と言うよりも「特技は野球をすることです」と言い切ってしまう方が自然だし、メタルフレームの文芸部長が少し恥ずかしげに言う「趣味は小説を書くことです」を「特技は小説を書くことです」に置き換えたら、やっぱり違和感があると思う。

 

そして、その理由は、野球部が甲子園に出るために練習に励むことは努力と呼ぶに相応しいけれども、文芸部が文化祭で配布する部誌の締切に追われることを努力と呼ぶことにはちょっと違和感があることと深い関係があるのではないだろうか。

 

言うまでもなく、文化部を運動部よりも下に見ているとかそういう話ではない。ここでは野球を例に挙げてみたが、スポーツは得てして「プロセス」よりも「結果」を重視する性質のものだと思う。それどころか、その選手が何処からやって来たかとか、どれくらいの期間その競技を続けてきたかというような情報はすべて排除され、定められたルールに基づいた勝敗のみが結果として残るものである筈だ。

 

一方の小説は「結果」よりも「プロセス」が重要である物事の代表例として挙げたつもりだ。小説でも映画でもRPGでも、友達が結末を口走ってしまったところでその価値が無くなることはない。そこにどんなストーリーがあるのかというプロセスを体感したくて、我々はそういうものにお金を払っている。それを創作することは、物事のプロセスを大事にする人にしか出来ないことだろう。

 

要するに、結果が重要なものが「特技」と言われるもので、プロセスが大切なものが「趣味」と呼ばれるものなのではないかと、僕はそう考えている。その上で、そもそも結果を重視していない性質の物事も世の中にはたくさんあるから、スポーツと同様の枠組みをあらゆるものに当て嵌めようとするのはナンセンスであるということも、ここできちんと主張しておきたい。

 

僕のピアノの話に戻る。いつかは、自分の演奏をちゃちゃっと録音してSNSにアップできるぐらいになれたらいいな...なんて妄想をすることもあるけれども、実際には、その日の気分で作った音色を適当に鳴らして悦に浸ったり、楽譜の中のとある和音がものすごく綺麗でそこばっかり弾いたり、弾けるようになるための努力をする気配が全くない。

 

ありがたいのは、レッスンの先生が、いい歳をした大人である僕を相手に努力を求めることはせず、僕の進むペースに合わせてくれていることだ。もし僅かでも僕がピアノの練習をやらされているように感じることがあったら、幼稚園児の頃から何も成長することなく、辞めてしまっていたことだろう。

 

最近は、体力的にも精神的にも余裕を失いかけるくらいに仕事に追われたり、あらゆるものから逃げ出したくなる衝動に駆られたりすることがないこともないが、少なくとも週に1回は鍵盤に触れる時間をつくっていることが、何らかのいい影響を与えている可能性というのはあると思っている。いまの演奏のレベルだと「僕の趣味はピアノを弾くことです」と言うのは正直ちょっと気が引けるところだが、それはそれで構わないような気もしている。

 

趣味と呼べるほどでもないのだけれども、知りたいこと、やってみたいこと。それの名前は、たぶん「興味」だ。

空気清浄機にまつわる話

ようやく空気清浄機を買った。

 

どうして『ようやく』なのかと言うと、ずっと前から欲しいと思っていて、ネットで調べたり電器屋さんに見に行ったりもしておきながら、結局買わないままでいたからだ。部屋には去年のモデルのカタログがある。

 

なかなか購入に踏み切れなかった理由は、どのメーカーのどの型式にすればいいのかをずっと選べなかったからだ。空気清浄機の性能を示す指標の最たるものは、規格(※1)で定められた条件で何畳の空間を何分で清浄できるかという「適用床面積」だ。なので、それを置きたい部屋の大きさを基にして、ある程度までは絞り込むことができる。だが、問題はその後だ。

 

国内ではおもに、S社・P社・D社の3社が各種ラインナップを揃えている。同じ適用床面積で、同じくらいの価格で、3社3様の製品が並ぶと、統一的な尺度で較べることが急に難しくなってしまう。店頭でそれぞれの見本品を前にして、ついに店員さんも説明することがなくなって2人の間に沈黙が流れるレベルまで悩んだ結果、僕はD社の直方体を買って帰ることにした。

 

決め手が2つあった。ひとつは、吸込口の位置だ。背面に大きな吸込口を設けている装置も多いなかで、僕は側面と前面から吸気するタイプを選んだ。当然ながら、空気清浄機は壁の近くに正面を向けて置きたいので、吸込口が背面だったらやはりコンダクタンスが良くないように思えてならなかったからだ。実際に計測したら差はないのかも知れないが、空気清浄機まわりの気流の速度ベクトルマップが見えた気がしたからには、それに従うほかなかった。

 

もうひとつは『それを製造しているのがどんなメーカーなのか』ということだ。僕は、あるものを選ぶときに、その分野のみを専門としている人たちがつくったものをより高く評価したいというポリシーを持っている。空気清浄機について言えば、テレビやドライヤーなど多様な製品群を製造しているS社やP社よりも、空調機器を専門としているD社の製品を選びたい、という判断になる。たとえシェアが小さくても、その分野の売り上げだけで成り立っているメーカーのほうが、ほんとうの技術力において優るものがあるのではないかと考えているからだ。

 

もちろん、「技術」を評価するとき、比較するものは「数値」だ。重さや速さなどの物理量で表現できるものは当然のことながら、人間の感性に依存するようなものであっても、『AとBのどちらがより使いやすいですか』や『快適さは5段階でいくつですか』というように数値化して収集することが可能な問いに置き換えて扱う必要がある。

 

しかし、その結果として表れる数値は、あくまでその技術をその方法で評価したときの数値であって、その技術のほんとうの姿を映しているものではない。技術者の端くれとして、技術とはもっともっと奥深いものであると信じたいし、それをより深く理解しようという気持ちを持ち続けたいとも思う。

 

ここまで強力な決め手がありながら、それでもずっと迷っていたのは、ひとえに値段の問題があったからだ。最後の2択にまで絞り込んだとき、D社製はS社製よりもざっくり1.5倍ほど価格が上だった。より高いものを買えば性能がいいのは当たり前だし、そもそも自分の部屋に対してオーバースペックになるのではないかと悩んだ。

 

難しい選択肢に直面したとき、『どっちも選ばない』というのは万能の答えだったりもする。実際、空気清浄機なしでこれまでの春を乗り切ってきたのだから、こんどの春も乗り切ることができるはずだ。でも、『どっちも選ばない』という、判断をしない判断が常套手段になっている自分に対して若干の嫌気を憶えるようになってきているので、ちゃんと判断をできた今回の自分を少しは褒めてあげようか、とも思う。

 

病院でそういう検査を受けた訳ではないが、僕はほぼ間違いなく花粉症だと思う(※2)。最近も、夜だし風がないからとベランダのサッシを全開にしたらすぐに喉が痛くなったし、思えば大学生になった辺りから、3月になると風邪の症状が数週間も続くようなことがあった。時には微熱があることもあったのだが、熱さえなければ大丈夫とサークルの春合宿に参加して、マスクをしながら大声で歌って全然治らないという、今となっては書くだけでも後ろめたさのある振る舞いをしていたこともあった。これからの春は、少しでも健康かつ快適に過ごせればいいなと思う。

 

ところで、この空気清浄機に決めますと言ったあと、店員さんは「アパートのワンルームなら充分なスペックですし、もっと大きな部屋に引っ越しても使えると思いますよ」というようなことを仰っていた。交換式の集塵フィルターは10年保つらしい。僕は、心の中で、大学生の一人暮らしみたいないまの部屋を離れる予定はないんだよな、と呟いた。

 

小さな頃から、自分は少なくとも20代のうちに結婚することはないだろうと漠然と思っていたので、同年代のみんなが結婚をしようが子供ができようが、自分は自分のペースを乱されることなく生活していけると考えていた。でも、実際には、身近に感じていた人が結婚などの大きな転機を迎えているのを見かける度に「で、お前はどうすんの?」と誰かに問いかけられているような感覚になる。特に、20代後半になってからの変化に乏しい生活がいつまで続くのだろうかと考えるときには、言葉にならない叫び声をあげたい衝動に駆られてしまう。

 

そもそも、生命の本質は「変化」である。成長と呼ばれているものも、老化と呼ばれているものも、そこにあるのは「変化」だけだ。もしかしたら、ウイルスの変異でさえ同じように扱うことができるのかも知れない。だから、変化に乏しい生活というのは、生きていることに対する実感が乏しい生活でもある。

 

今日のこの日と1年前のこの日は違う1日であり、昨日と今日もまた違う1日である、ということに対する実感がなければ、明日は今日とはまた違う1日になるという信念を得ることができない。その信念がなければ、この困難な時代を正面切って進むことは難しい。

 

もっと言えば、時間的な変化の一切がなくなると、時間の「有限性」は確かめることができなくなる。さまざまなフィクションで描かれているような、永遠の命であるとか、14歳の姿のままで生き続けるとか、時間がループして同じ1日が何度も何度も繰り返されるとか、そういう場面を想像してほしい。老いることも死ぬこともなくなれば、「いま」やろうとしていることは必ずしも「いま」やる必要がなくなる。そして、もしも無限の時間を手にしたとき、ついに時間の価値はゼロになる(※3)。

 

現実では、あらゆる生命の寿命が有限であり、「いま」はこの1回しかない。それを理屈では解っていても、その実感が伴っていないと、『いまを大切に生きる』というのは口で言うほど簡単なことではない。

 

やわらかい陽射しは花粉のほかにもいろいろなものを連れてきた。入学進級卒業就職異動退職など、多くの人に大きな変化や小さな変化が訪れる季節だ。もしかすると、姿の見えない変化の予感に期待よりも不安のほうがはるかに大きくなっている人もいるかも知れない。けれども、変化を起こし変化を感じることができるのは生命の特権だから、躊躇いなく進んでみることをお勧めしたい。僕も、ここから一人で起こすことのできる変化を、なにか企んでみようかな。ちょっぴりオゾンの臭いがする(※4)気流を顔に受けながら、そんなことを思う。

 

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月まで3キロ@浜松市天竜区

 

(※1)日本電機工業会規格 JEM1467(家庭用空気清浄機)

(※2)「花粉症について」:みんなの医療ガイド | 公益社団法人全日本病院協会

(※3)それでもやっぱり、人は死ぬ その現実が導く理想の生き方:日経ビジネス電子版

(※4)ストリーマ放電により微量のオゾンが発生するため、吹出口からニオイがすることがありますが、ごくわずかであり、健康に支障はありません。(DAIKIN 加湿空気清浄機 取扱説明書)

最近考えること三篇

<第一篇> 「思う」を超えて「考える」へ

 

間もなく衆院選の投票日がある。静岡県に住む人はその前に参院補選もある。自分ひとりが投票してもしなくても選挙の結果は全く変わらない、というのはあながち間違いではない。少なくとも、そう思ってしまうこと自体は仕方がない。しかし、そう思って実際に投票をしない人が何百人、何万人と集まると問題が起こる。有権者全体(母集団)の年齢や職業・価値観などの構成と実際に投票をした人(標本)のそれらの構成が同じにならなければ、投票結果の統計的な正しさが低下する。そして、若者の投票率が低いと指摘されているように、この標本のかたよりは実際に起こっている。

 

ここに「思う」から「考える」への転換の必要性がある。「自分の票だけでは何も変わらないだろう」というのは、視点が自分に張り付いたままのピュアに直感的な発想だ。それに対して、「同じように思って投票に行かない人がたくさんいたら何が起こるだろうか」というように、ある仮定を踏み台にもう一歩先へと思いを巡らせることで、それは主観を離れた思考になる。

 

さらに言えば、投票率の推移などのデータはインターネットで手に入る訳だし、投票率向上のためのPRなどが盛んに行われている様子を見たり、それに関する有識者の意見などを調べたりすれば、自分の考えがどのくらい合っていてどのくらい間違っているのかを知ることができる筈だ。この段階までくれば、調査や研究と呼んでも差し支えないのではないだろうか。

 

新型コロナウイルスのワクチンについての陰謀論とか、著名人に対するネット上での誹謗中傷とか、いじめの被害者と加害者にまつわる問題とか、発信者の主観にべっとり張り付いた考えが、あたかも真実であるかのように拡散されたり、あたかも全体の総意であるかのように個人に突き付けられたり、そういうことが頻発している気がする。「考える」という行為は、ほとんどの場合において「調べる」という行動がセットになる。その結論があらぬ方向へ向かう危険性を秘めているのは、自分の頭の中だけですべてが完結できてしまう「思う」という行為のほうだ。

 

もしも、この世界に暮らすほとんどの人が「考える」ということをしなくなったとき、新しい技術や思想はその価値を失い、世界は少しずつ前近代化していくに違いない。今この時代はどうだろう?

 

まぁ、そもそも、このお話自体がどれだけ「思う」を離れることができているのか定かではない。検証を含めた「考える」という行為についてその本質を論じるなら、それだけで本が何冊も書けそうだ。

 

最近は仕事中にそんなことを考えながら、「やっぱり僕はものを考えるのが好きなのかも知れない...いまから博士号取って研究者にでもなっちゃおうかな~」なんていうことを考えている。いや、思っている。

 

 

 

<第ニ篇> 「死にたい」の正体

 

「死にたい」という独り言が確実に増えている。

 

こんな不気味な書き出しはあまり良くないかも知れない。できればもっと明るくポップにこの状態を表現したいが、実際に僕の口から出る言葉は他ならぬその4文字なので、どうすることもできない。

 

念のために言っておくが、僕の場合の「死にたい」というのは、「いまこの場所で自殺を図りたい」という意味ではない。じゃあどんな意味なのか?と自問するけれども、この答えがなかなか出ないのだ。「死にたい」の正体は分からない---このことは、メンタルの問題は決して”考え方次第”などではなく、まして”やる気”や”気合”の不足でもないということを示唆しているようにも思える。

 

「死にたい」という感覚は、いつでも僕の周りにいる訳ではない。例えば、僕が誰かと一緒にいるとき、ヤツは決して近付いてこない。それだけではなく、リアルで友人と会うような場合には、その前後しばらくの間、ヤツはどこか遠くにいる。オンラインで誰かと話をするときでも、少なくともその間ヤツは姿をくらましている。もしかしたら、誰かと一緒に暮らせばそれだけで解決する問題なのかも知れないが、その解決策はひとりでは実行できないというのが重要なポイントだ。

 

こうして書いてみることで何かしら発見があることを期待したが、どうやら収穫はなさそうだ。自分のメンタルの動きが自分で理解できないというのもおかしな話だと思う。もしかしたら、ヤツとは長い付き合いになるのかも知れない。ヤツが僕の理性より肥大化してしまうと僕の身体を明け渡すことになってしまうので、今後もそれだけは気を付けたい。

 

ところで、この話の冒頭でちょっと嘘をついてしまった。「死にたい」という感覚を明るくポップに表現したいなんて、僕は全く思っていない。明るくポップな表現しか受け容れてもらえない場所があるとしたら、それこそが不気味だと思っている。

 

 

 

<第三篇> このブログについて

 

ごく稀に「ブログ読んでるよ」と言っていただけることがあるのだが、これを対面で言われると、とてつもなく恥ずかしい。なので、僕からの返答はいつも「えぇ~あぁ...そっかぁ」というようなへにゃへにゃしたものだったに違いない。しかしながら、実際には、それを凌駕するくらいにとてつもなく嬉しくもある。いつも後から思い返してはひとりでニヤニヤしているので、是非とも安心してほしい。

 

確かに「このブログは読ませるために書いてるんじゃねぇ!」なんて息を巻いたこともあった気がする。でも、それは、流行りの話題や内輪ネタなどでなけなしのいいねを稼ぎにいったり、読み手が反応しづらいテーマを扱うことを避けたりはしないということを意味していて、実際には1人でも多くの人にリンクを踏んでもらいたいし、1行でも先まで読み進めてもらいたい。考えれば考えるほど自分がこの世界に〔gene〕を遺せる可能性はゼロに近く、ならばせめて〔meme〕をば、という、あくまでも利己的な欲求なのだと思う。

 

「おもしろいコンテンツはおもしろい人間からしか生まれない」という壁に何度もぶち当たりながらも、つまらない人間がおもしろいものを作り出すべく四苦八苦するその様子を、これからもどうぞご覧あれ。

 

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きのうのばんごはん

 

UFOにまつわる記憶 #1

 信号待ちになった途端、8月の蒸し暑さに取り囲まれて、僕はシャツのボタンをもうひとつ開けた。

 

 夏休みは昨日で終わってしまった。今日は始業式で、授業はなかったから、11時には下校になった。教室がいつにも増して騒がしく、僕はさっそく嫌気がさしてしまった。早く帰っても特にやることはないし、自転車をひたすら南に向かわせて、海を見に行くことにしたのだ。

 

 ようやく海沿いの小さな運動公園についた。そこには野球場があって、あと1日か2日だけ夏休みが続くであろう中学生たちが部活をしている。その様子を横目に見ながら、駐輪場に自転車を停めた。

 

 ここからすぐに松の防潮林を抜けて、砂で小高くなった防潮堤を上れば海が見えるのだけれど、僕はいつも数百メートルだけ西に歩いてから防潮堤を越えるようにしている。家族や友達と遊びに来た人がいることが多くて、なんだか気を遣ってしまうからだ。最近ではコスプレイヤーとカメラマンを見かけたこともある。せっかく暑いなか自転車を漕いできたのだから、なるべく人に会いたくない。

 

 ひとりになりたいと思ったときに決まって海へ行くようになったのは、たしか中学2年の頃からだ。いまの僕は当時の僕と較べたらずいぶんと変わってしまったけれど、海はずっと変わらない。もちろん、空は変わるし、風はもっと変わる。それでも、海はやっぱり変わらない。

 

 やっといつもの場所まで来て、僕は防潮堤の上から砂浜を見渡した。いつもと同じであるはずの海に、ひとつだけ違う所があった。あれは、UFO?

 

 ときおり砂浜の凹凸に足を取られながら近付けば近付くほど、それはUFOだった。ざっくり言えば半球と円盤で構成されていて、色は光沢のない銀色。誰もが思い浮かべることのできるあれが今まさに僕の目の前にある。

 

 最初はかなりちっぽけに見えたが、それは砂浜があまりに広いからであって、近付いてみると結構な大きさがある。そう気付いたら、ちょっと怖くなってきた。

 

 まさかとは思うけど、もしこれが本物だったら。おもむろに浮上して地上に向かって強い光を放ち始めたら、逃げ切れるだろうか。そのまま地球には帰ってこられないかも知れないし、地球に帰してくれるとしてもキャトルなんちゃらされて内臓を抜かれてしまってはどうしようもない。「生きたい」なんていう大層な願望が自分の中にあるようには思えないけれども、だからといって今ここで死ぬのは勘弁してほしい。

 

 いまUFOまでの距離は20メートルくらいだろうか。僕はそれ以上近付くのをやめた。よく見ると円盤の上の球体の部分には等間隔に窓が開いているようだ。といっても小さな隙間のようなもので、こちらから内部が見えるようなものではない。そもそも、太陽系の外からはるばるやってくるような高度な技術があるのであれば、外部の様子はそんな隙間から覗いているはずがない。マイクロ波からX線ぐらいまでの各種カメラがあの中に並んでいるのだろう。

 

 工業高校の生徒としては気になることは山ほどある。しかし、ここは自分の命が最優先だ。もう退却するしかないが、もっとよく観察したい気持ちも抑えられない。仕方がないので1歩ずつ後ずさりを始めた。

 

 なんだか、機体全体が小刻みに震え出したのは気のせいだろうか。確かに海からの風は強く吹いているけれど、それが原因でこんなに細かく振動するとは思えない。そうなると、このUFOは離陸寸前、キャトルなんちゃら待ったなしなのではないか。

 

 一刻も早く逃げよう、そう思ったのとまさに同時に、足許にあった小さな流木に踵を引っ掛けてしまった。僕は大きくしりもちをついた。ヤバい!と思ったそのとき、UFOがとんでもない動きを見せた。

 

 なんと、球の形をした上半分と円盤を含む下半分がパッカーンと上下に割れたのだ。UFOの動きとしてはあまりに予想外だったのだが、何故か僕はこの光景に既視感があった。これは、サザエさんのオープニングだ!

 

 ただし、そこにいたのはサザエさんでもタマでもなく、制服を着た女子高生だった。

 

<続>

あるポストの話

 僕はその日、名古屋へ来ていた。梅雨ももう明けたのに、僕はまだ内定をひとつももらうことができず、就活を続けていたのだ。今日は最終の個人面接だったが、順番がかなり早かったので、10時前にして既に帰途に就いていた。

 

 手ごたえは全くと言っていいほどなかった。帰ったらまた追加で何社か受ける準備をしなければいけないと考えると、まっすぐ帰る気力も失せる。かといって、この日差しの中を暑苦しい格好で歩き回るのも御免だ。何ともやるせない気分で、時折立ち止まってはスマホで地図を見ながら、来た道を引き返すように駅へ向かった。

 

 と、そのとき、急に誰かが僕を呼び止めた。

 

『あの...すみません...』

 

 たったいま黒い眼鏡をかけた髪の長い女性とすれ違ったが、その声は明らかに男性のものだ。この距離であれば、今の呼びかけは女性にも聞こえている筈だが、何の反応もなく駅とは反対側へと歩いていく。

 

 なんだ空耳か、と思って再び歩き出したとき、またもや声がした。

 

『すみません、そこの方。私です、ポストです』

 

 見てみると、広い歩道の車道側にポストが立っていた。街中でよく見かける投函口が大小2つあるタイプのポストだった。まさかとは思いつつもポストへ近づいて、一度ためらって周りを見渡したあと、意を決して声をかける。

 

「....呼びました?」

『やはり気付いてくれましたね。本当にありがとうございます。今あなたの脳内に直接語りかけています』

「ってことは、今あなたの声が聞こえているのは僕だけ?」

『そうです』

「僕が頭の中で考えていることを読み取ったりはできない?」

『残念ながらそれはできません。声に出していただかないと。私はただのポストですから』

「いや、しゃべれる時点でただのポストじゃないと思うけど...」

 

僕はもう一度周りを見渡す。

 

「それだと、傍から見たときに、僕がまるで一方的にポストに話しかけている変な人だと思われないかなと思って」

『その可能性は否めません』

「まじかー」

『あの、実は、お願いしたいことがありまして、少しお時間を頂いてもいいでしょうか?』

 

 居酒屋のキャッチとは違って、向こうが僕についてきてしつこく話しかけてくる可能性はゼロなので、僕はその時点でその場を立ち去ることができた。でも、急いで帰る気もさらさら無かったので、しばしこの変わったポストの相手をすることにした。

 

「いいですよ。どうしたんですか?」

『あの、それが、ある人に手紙を送りたいと思いまして』

 

 ある意味では最もポストらしく、またある意味では最もポストらしからぬ話だと思った。ただ、いずれにしてもとてもメルヘンチックで、僕はがぜん興味が湧いてきた。ふと、さっきから左手に持ったままだった手帳サイズのノートが目に入った。会社説明会などでメモを取る用に使っているものだ。

 

「このノートをちぎったやつでよければ。というか、もしかしてこれを見て僕を呼び止めたとか?」

『その通りです。図々しいお願いなのは承知ですが、これから伝える言葉を書き留めていただけませんか?』

「なるほど。分かりました」

 

 ✉ ✉ ✉

 

 僕はノートの一番最後のページをなるべく丁寧に千切りながら訊ねた。

 

「ちなみに誰に宛てたどんなお手紙なんですか」

『あの、それが、お恥ずかしい話なんですが、告白の手紙を...』

「えぇラブレター!?」

『そうなんです』

「そ、そうなんだ... お相手は、やっぱりポスト?」

『いやそんな訳ないじゃないですか。毎朝犬を連れてここを通る女性がいまして、まあ雨の日なんかは来ないこともありますが。そうそう、その犬がたまに私にマーキングをするんです、いや別に嫌な訳じゃありませんよ、というか何ならちょっと興奮しますよね、といってもマーキングされた経験があなたにおありかどうかは分かりませんが、私はただのポストですから』

 

 止まらなくなったポストの話は途中から耳に入ってこなかった。何だかとんでもない話に巻き込まれているようだ。

 もしかしたら、ポストが好きになる相手は同じくポストだろうというのは、いささか浅はかだったかも知れない。そもそも、ポストは人間のように集まったり群れたりする訳ではないから、他のポストと出会う機会なんてないのだろうか。自分の常識が揺さぶられる音が聞こえる。考えれば考えるほどよく分からない。

 ポストが人間に恋をする。確かに、誰が誰を好きになろうと自由だ。”自由”というよりも、そもそも自分では”制御不能”だ。あらゆる物事に論理《ロゴス》を持ち込んで、種の総体としての持続可能性を高めようとし続けてきた人類が、未だに論理《ロゴス》という乗り物で1mmたりとも踏み込めずにいる領域がそこだ。

 

 とはいえ、いま目の前の問題として、僕が代筆したラブレターがその女性に届いたとき、何がどうなってしまうのか。いや、そもそもこのポストは女性の住所や名前などを知っているのだろうか。

 

『でも私、彼女の名前を知らないんです。あの、でも、住所は分かるので多分届くんじゃないかなと思っています(※1)。集められた郵便物がどう仕分けられてどう配達されるのかはあまり存じ上げません。私はただのポストですから』

「なるほど。住所はどうやって分かったの?」

『友達にカラスがおりましてね、この前彼女が家に入るところまで尾行してもらったんです』

 

つまり、このポストはカラスの脳内にも直接語りかけることができ、カラスの鳴き声を理解することができ、そしてカラスはとにかくめちゃくちゃ賢いということになる。それにしても、カラスに尾行されるとはだれも考えないだろう。仮に将来、本物のカラスと全く見分けがつかないロボットが実用化されたとき、僕はそれに尾行されていることに気付けるだろうか。

 

 そうこうするうちに、僕はポストが伝える言葉を記していき、手紙が完成した。初めはポストの側面に押し当てる格好で書こうとしたが、くすぐったいと文句を言うので、分厚い会社案内をバインダー代わりにした。ちなみに、その文面はどんなものだったかというと...

 

...やめておこう。これはあのポストと僕だけが知っている不思議な出来事なのだから。


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「さて、手紙は書けたから、あとは封筒と切手か。履歴書用の大きい封筒しか持ってないし、どうせ切手は買わないといけないから、ちょっと行ってきます」

 

そういって僕が鞄を持ち上げたとき、ポストが言った。

 

『... ちょっと待ってください。』

「いや遠慮しなくていいよ。せっかく書いたんだから、投函までやらないと」

『あの、お気持ちはありがたいですが... やっぱり大丈夫です。いま書いてくださった手紙はそのまま私の口に入れてください』

「それだと届かないんじゃない?返送もできないから郵便局で捨てられちゃうかも」

『いいえ。集荷袋とは別の、もっと奥のところに大事にしまっておきます』

「え、そんなことができるの」

『私はただのポストですけど、投函口の先にはみなさんが考えているよりもずっと広い世界があるんです』

 

 ラブレターはただ書くだけでも悶々とした気持ちがすっきりすると言われている。そういう僕も、ずっと昔、未遂事件を起こしたことがある。クラスの女子に宛ててラブレターを書き、書き終わったら急に恥ずかしくなってしまい、家で捨てたら親に見られるかも知れないと思い、他のゴミに紛れさせてコンビニのゴミ箱に捨てたのだった。いまのポストはまさにそういう状態なのだろうか。

 

「本当にいい?このまま投函するよ?」

『はい。お願いします!』

 

 手紙を投函するとき、自分の手が手紙の重力を感じなくなる瞬間、いつもちょっとだけ不安な気持ちになる。必着日を過ぎてしまったらどうしよう、内容に誤字があったらどうしよう、図らずも読んだ相手の気分を害してしまったらどうしよう... でも、そういう不安はすべて、手紙が通信《コミュニケーション》である以上、送り手が背負う必要のあるものだ。

 でも、このとき、きっと誰にも届くことのない手紙を投函する瞬間は、不安な気持ちは一切なくて、8月の早朝の空のような清々しい気持ちに満たされていた。


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『あの、実は、あなたにお願いしようと思ったのにはもうひとつ理由がありまして』

「えっ、何?」

『ときどき立ち止まってスマホを見ていらしたので、この辺りに来られるのは初めてなのかなと。毎日ここを通る人は足早に通り過ぎるか、ずっとスマホに目を落としたままかのどちらかですから。ここを歩く人たちの様子を眺めることが唯一の楽しみみたいなものなんです。私はただのポストですから』

「なるほど」

『毎日ここを通る方にこんなお願いをするのは、流石にちょっと、気まずいというか。私は照れるとすぐ赤くなってしまうので』

「あはは。これ以上赤くなっちゃうのか」

 

 確かに、一期一会だと分かっているほうが案外積極的に話ができることが多い。むしろ、同じ部活の後輩や、バイト先の先輩など、週に何度も顔を合わせている人のほうが会話をすることが少なかったりもする。その気になればいつでも話せるから、というある種の怠慢なのか、あるいはこのポストが言うように、頻繁に会うからこそのある種の遠慮なのか。

 

 その理屈で言えば、さっきの面接は、もっと積極的に話ができてもよかった筈だ。と思ったところで、自分がいま就活中であるという事実が押し寄せてきて、急に現実に引き戻された。そろそろ帰らなければ。

 

「ところで、君はいつからここに立ってるの?」

『ええ、かれこれ47年になります。まあ、私はただのポストですから』

 

 気まずい空気が流れてしまった。僕は途中からついタメ語になっていたけれども、自分の倍も年上だったとは。もっともポストの平均寿命が分からないから、人間換算で何歳くらいなのかは分からないけれども、別れ際に余計なことを訊いてしまったとつくづく反省した。

 

「そうなん...ですね。まあ、これからもお元気で」

『ありがとうございます。本当にありがとうございました』

 

 僕はノートやペンを鞄にしまい、スマホを開いて改めて駅の位置を確かめ、右手を顔の高さまで挙げ、「じゃあ」と短く挨拶をして歩き出した。

 

 すれ違ったサラリーマンと思しき男性が驚いた顔で僕のほうを見ていたような気もする。

 

<了>

 

 

※1 原則としては、宛名もないと郵便物は届きません。

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